連載 情況の戦略判断シリーズ

なぜ井上尚弥選手はダウンしたのか

2025.05.07 代表取締役社長 松田久一




なぜ井上尚弥選手はダウンしたのか

 ビックリしたことがあった。

 井上尚弥選手が2025年5月5日(日本時間)のボクシングの試合で、ラモン・カルデナス選手とのスーパーバンタム級4団体統一王座防衛戦を行った。その際に、井上が2回にダウンした。

 なぜ、井上はダウンしたのか。

 井上は、野球の大谷選手と肩を並べる世界で戦える選手だ。井上は軽量級で小さいがそのパンチには破壊力がある。パンチ力は、F=ma(力=質量×加速度)なので、井上はm(質量)が小さいので、a(加速度)をあげることによってあまりあるほど軽量を補っている。ヘビー級の100㎏の選手と同じパンチ力を出すには、加速度を倍以上あげればよい。マイク・タイソンの倍のスピードでパンチを繰り出すので並大抵の加速度ではない。そして、常に、パワーを引き出すための「平常心」(「猫の妙技」での極意)を維持できる精神力を持っている。

 その無敵さぶりは、30戦30勝(27KO)という数字が物語っている。その井上が、前評判では「格下」のカルデナス選手を相手に、ダウンした。前回の東京ドームのネリ戦でもダウンしたが、試合開始からわずか5分ほどで驚いた。衝撃と「負けるのでは」という不安が襲ってきた。

 しかし、その後は、試合を立て直し、反撃もあったが順当に勝利した。それにしても、井上のヒット率45%のあのパンチをカルデナス選手はよく耐えた。カルデナス選手の精神力もすごい。

 戦後のインタビューでダウンの理由を聞かれ、「自分も驚いた」、「ボクシングは奧が深いと改めて感じた」と答えている。カルデナスも「狙ったものではない」と答えている。

 疲れ(マイク・タイソン)、加齢などの説明も、経験者や専門家が指摘している。

 なぜ、井上はダウンしたのか。

 納得できる答えを探しているなかで、戦いの勝利を決めるのは、「摩擦(Friktion、英訳Friction)」を制する者であり、これを制することができる者が「軍事的天才」だ、という言葉が思い浮かんだ。

 摩擦は、難しい訳語で、計画と実行のズレ、天候などの予見できない不確実性、そして、偶然などの次元を持つ概念だ。

 クラウゼヴィッツの「戦争論」の内容だ。ナポレオン戦争で、繰り返し負けて、ロシアにまで転戦して、塹壕で書いた「戦い」の哲学断片だ。戦争とは政治目的の延長である、と洞察した。クラウゼヴィッツの言う「軍事的天才」とは、もちろん、ナポレオンの事だ。

 80回以上の戦闘で、70回以上の勝利を収め、10回の敗北を喫した。戦争とは、戦闘の連続で日露戦争なら、旅順攻略戦、奉天会戦などの戦闘の連続であり、キャンペーンである。それにしても、凄い戦績だ。

 ボクシングと人が死ぬ戦争とを同列に扱えない、とする反論も予想されるが、クラウゼヴィッツ研究者として知られ、ドゴールのアドバイザーであり、サルトルと対立したフランスの保守思想家のレイモン・アロンの「平和」のために戦争を学ぶという箴言で応えたい。

 井上は殴り合いの戦歴でナポレオンを超える可能性を持っているが、ボクシングには、残念ながら年齢という体力の壁がある。1年2回、40才まで戦って全戦勝利しても、43勝までになる。改めて、ナポレオンの凄さが実感できるとともに、大衆を巻き込んだナポレオン戦争の悲劇がわかる。「力の均衡」の論理や外交力は、ここに原点を持っている。

 「打ち合いが好きなんだ」と井上は言っている。クラウゼヴィッツは、戦争の哲学的考察をすすめる際に、戦争の本質は、「決闘」だと言う。ボクシングは、手で殴るというルールのもとでの決闘である。そもそもスポーツは、人間の闘争本能(欲望)を満たすために生まれたものだ。従って、人と人が戦うことに共通する原理原則があると考えるのが自然だ。ビジネスも、ルールの違う戦いだ。ライバルより少しでも優位に立って、顧客を獲得することだ。

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