2024年の日本を読み解く― 24の視点

2023.12.27(2024.02.15更新) 代表取締役社長 松田久一

 2024年を見極める24の視点。経営・マーケティングを越えて、縦横無尽に悪態をついています。もとより、会社とは無縁の私見と逃げさせて頂きます。

 日本は、「後期消費社会」という新しい資本主義の段階に入っている。そういう歴史観を基軸に、少々、ひと様とは異なる視座で書いています。恐らく、見方の違いが価値を生むと信じております。

 石鹸のような理屈です。石鹸は、汚れと汚れた物との界面エネルギーの差を最大化して、汚れをとるという価値を生みます。

 面白そうな項目を見つけて頂いて、ランダムに読んで頂ければ幸いです。

 人口減少で日本は衰退などと観測し、政府が対策をうつという愚策をやるそうですが、極めて机上の空論の当りもしない予測手法で、ヒトラーまがいの人口管理とは情けない。それよりも経済再成長に向けてやるべきことをやり、賃金をあげることが基本でしょう。日本での生活は何も変わらないのに、年間で30%もの円安を放置し、ドル建て国際比較で日本の衰退を叫ぶのは本末転倒。ドル建てランキングで、GDPでドイツに負け、一人当り賃金で韓国に抜かれ、と情けないとは思いますが、ドル建ての話であまり意味がありません。

 人口減少と円安で、経済大国・日本が崩壊しています。日本国という殻を破って誕生しているのが、21世紀中盤まで人口成長する世界都市・東京です。日本の東京ではなく、3,500万人の東京が日本になる勢いです。「超一極集中」が人口減少下で起こっていることです。推測手法にもよりますが、一人当たりのGDPは、どの国よりも高いはずです。3,500万人になった日本の姿とは、現在の東京圏であり、日本が世界都市になるという未来でもあります。悪くはないかもしれません。

 目線を変えてみましょう。妄想では意味がありませんが、視座転換が提案です。

構成

 徒然なるままに日暮らし、と達観したいものだが、寧ろ、年を重ねると世の中に憤慨することが多くなる。小林秀雄[※00-01]は、老年のあり方を、世捨てにならず、自らの経験と智識を生かし、若い世代に小言や愚痴で助言する老境を理想とした(「横丁の隠居」)。今では落語でしかお目にかかれない「近所のご隠居さん」だ。しかし、現在の日本は、もはや隠居生活ができるほど余裕のある社会ではない。隣近所のつき合いや縁は薄れ、物価高下の年金暮らしでは隠居できるほど懐具合の余裕はない。金銭を補う近所の相互扶助がない。

 このサイトに集う、縁ある商売人のみなさんに、2023-24年の関心事を通し、情況への憤慨と小言を通し、助言としたい。所詮、近所迷惑な老害と思って間違いない。

01

2024年の日本経済の鍵を握るのはインフレマインド

 バブル崩壊から約30年、日本の消費は、デフレマインドと節約に支配されている。このデフレマインドからの脱却が日本経済の行方を握る。ここでデフレマインドとは、インフレ予想(Inflation Expectation)がマイナスということであり、1年内の短期の物価上昇率が下がるという見方のことである。消費者視点では、「今、買うより待った方が得をする」態度である。このインフレ予想がプラスに転じ、今買った方が得だと考える態度が増加しつつあり、支配的になれば、2023-2024年の経済の歴史的大転換が起こる。

 デフレマインドからインフレマインドへの転換の可能性を引き出したのは、グローバルな供給制約とリベンジ消費による需要回復である。ウクライナ侵略と米中対立によって、原材料などのグローバルチェーンが寸断され、欧米でのコロナ後の「リベンジ消費」と重なり、物価の高騰をもたらし、企業が原材料コスト高を価格に転嫁したことによる。欧米ではコストプッシュ[※01-01]とディマンドプル[※01-02]が重なった。異次元金融緩和政策を継続する日本では、主に、コストプッシュによる価格転嫁である。これに円安が加わり、輸入物価は上昇した。

 2024年は、インフレはIMFなどの見方では、2%程度に落ち着くことが予想されている。

 需要は、個人消費、企業設備投資、政府支出、輸出入によって構成される。もっとも大きなものは、個人消費であり、GDPの約60%を占める。日本経済の最大の課題は、この個人消費を活性化させることである。

 しかし、この30年、消費が景気を牽引するような状况にはない。その理由は、歴史的な構造問題にある。それは資本主義の最先端問題であるからだ。個人消費がGDPの過半数を超え、さらに、選択支出が50%に達し、生きがいなどに繋がる価値に支出する経済段階だからだ。後期消費社会である。この問題が解けない限り、消費が牽引する経済は考えにくい。この問題は別項で議論する。

 歴史構造問題を除くと、消費者が合理的判断によって、デフレマインドからインフレマインドに「宗旨替え」することだ。デフレ教からインフレ教へ替わる切っ掛けは、世界的な物価高である。

 インフレ予想(短期)をどう測定し、インフレ予想の形成要因をどう考えるかは、若干、専門的な議論になる。ここでは、消費者調査をもとに考える。現在の情況で、デフレマインドからの脱却は、金融当局が影響を与えることのできるインフレ予想と消費者の「財の購入と所有のパターン」である価値ライフスタイルなどによって決定される「係数」である。

 現在、金融政策を握る日銀などでは、インフレ予想を、ベイズ推定[※01-03]によって捉えようとしている。インフレ予想は、過去に実現したインフレ率との関連が高い。従って、「インフレ予想の事後分布≈インフレ予想事前分布✕尤度(起こりやすさ)」として定式化されている。さらに、我々としては、この右辺を規定しているのは要因に、ライフスタイル要因が係数として繰り込まれていると考えたい。

 消費者は、次々と報道される結果にもとづいて、インフレ予想を更新している。

 消費者は、日銀などの金融当局の情報によって、0%、1%、2%、3%、4%というように予想する。そして、新聞報道などで実際のインフレ率が公表されると、それにもとづいて予想を更新する。事前には、1%と3%のふたつに集中し、複峰型の分布をしていたものが、結果発表によって更新され、インフレ予想の分布が2%に集中する単峰型の正規分布に更新されるというような想定である。

 このモデルでは、日銀などの政策アナウンス、アナウンスの受け止め方がふたつに分かれ、インフレ結果が出ることによって、予想が次第にひとつに収斂していくというプロセスとして描くことができる。従って、政策アナウンスと予想の社会的収斂がインフレ予想に影響を与える上で重要になる。

 このモデルに従えば、日銀、財務省、政府などへの信頼感、政策の一致と整合的アナウンス、インフレ予想の見方を収斂させる広報活動が重要になり、インフレ予想を2%ほどに持っていくことがデフレマインド脱却の重要な政策になる。

 そして、もうひとつの要因は、消費者が志向する、収入、世代や年代を通底する価値ライフスタイルがどうなるかである。現在のインフレ予想は、価値ライフスタイルで異なっている。三つ以上の峰がある複峰型だと考えられる。

 インフレマインドを持つのは、「品格上質スタイル」18%、「先進感覚スタイル」13%のふたつの層だ。デフレマインドにならざるを得ないのは低収入の「ひとり満喫スタイル」9%、「脱力系スタイル」3%だ。中間層にあるのは、都市型の「平凡充実スタイル」40%、地方型の「質素悠々スタイル」18%だ。

 この分布から想定されるのは、中間層の約58%が、インフレマインドに近づくか、あるいは、デフレマインドによるかである。方向を決するのは、23年のインフレ率であるが、より重要なのは、どの価値ライフスタイルが魅力ある生き方として映るかである。それは、メーカーなどの提供する商品サービスの提供価値によって決まる。

 ここまではほぼ確実である(人口予測は当たらないが)。恐らく、人々が慌ただしく動いているという気配がインフレ予想の原点だろう。こんな理論がある訳ではない。味噌汁を冷ますといくつかの対流ができる。これはベナール対流[※01-04]として知られ、お椀の底に近い部分はまだ熱く、空気に触れた上面は温度が低くなる。従って、底の味噌汁は軽く上にあがり、底の味噌汁は下にいく。それが次第に秩序を持ったモヤモヤの流れとして観察できる。これは温度差が変化を生み、マクロな秩序をつくりだす構造である。経済はそもそも均衡ではなく、非均衡である。

02

円安の経済的効果と社会的効果

 円安は経済的にはメリットが大きい。輸出市場で低価格競争力が強くなり、輸出が拡大するからだ。輸出市場が拡大すると、企業はドルを売り、円買いをする。その結果、円高となる。1ドル360円という為替の固定相場制のもとで、日本は経済成長の基盤を確立したと言っても過言ではないほど、円安の効果は大きい。労賃が高くて、海外に出た生産も戻り、国内への設備投資も伸びる。結果として、輸出市場の拡大と国内への設備投資で需要は拡大し、景気拡大するというものだ。「近隣窮乏化政策[※02-01]」とも言われている。

 しかし、この流れが、現実に作動しているかと言えば必ずしもそうではない。円安の経済効果は、「後期消費社会」に入った日本経済には少々古すぎる。この段階の資本主義では、価値が問題となる。価値とは、人々が「生きがいに通じると感じる有用性」のことだ。この観点からは、円安は、多くの人々の生きがいに繋がる海外旅行関連のコスト高になり、ドルベースでGDPなどの国際比較が行われるので{「GDPでドイツに抜かれる、平均賃金で韓国より低い」など}、いかにも日本の国力が低下したような印象を与え、生きがいに繋がる自尊心を傷つける。そして、将来不安を高め、消費にブレーキをかける。つまり、円安は、知的労働にとって頭のリセットを奪い、日本人の自尊心をそぐ効果を持っている。それにも関わらずもはや都心では家も手に入らない。

 円安の経済効果と社会効果を秤量すれば、為政者の発想は古い資本主義のままだ。日銀は、利上げをしないし、財務省も為替介入しない。

 円安の表面的原因は、日米の金利差にある10年物の国債で約5%だ。投資家からみれば、利率差+為替リスク=利得になるので、当然、為替リスクの範囲内でドル買いが起こる。10年物の国債は、日銀がコントロールしている。異次元の金融緩和=マイナス金利からの離脱を図ろうとしているが、なかなか実行しない。

 直接的な為替介入は財務省が担っている。日本でもっとも経済的利得を得ているのは、自動車産業などの輸出産業ではなく、財務省である。為替介入のためのドル資産は平均購入為替がおよそ100円で約100兆円と、ざっくり計算でき、円に戻せば、約50兆円もの差益を出している。この差益を国の予算に組み込むには法律改正が必要だが、無理な話ではない。 

 日本は、古い資本主義政策と新しい資本主義政策が競合している。円高にすれば、不動産などの借金企業は大打撃を受ける。この利害を裁断するのは政治である。それがない。まっとうな実務家はいないのかと嘆きたくなる。

03

消費の経済分析と社会分析

 消費のマクロな経済分析は、1990年代を最後にほぼ見なくなった。マクロ経済学は変貌するとともに混迷している。論文は量産されるが出口が見えない。最近のマクロ経済学のノーベル賞受賞者も、女性差別などの時代のトレンドを捉えた実証に過ぎない。

 そんななか50代の宇南山卓氏の「現代日本の消費分析:ライフサイクル理論の現在地」が出版され、経済専門誌でとりあげられ評価されている。素晴らしいことだ。

 総理府の「家計調査」などのミクロデータを活用し、古典的なライフサイクル論を実証したものだ。結論は、日本の消費はシンプルなライフサイクル論でうまく当てはまるといものだ。さらに、ミクロデータのサンプルを「因果推論[※03-01]」の手法を用いて「自然実験[※03-02]」をおこない、消費税の値上げや公的年金支給のタイミングがどうなるかを分析している。政策変更の影響をモデル上でクリアにしている。

 個人的な評価としては、やはり、消費は経済分析では限界があり、社会分析が不可欠であるという印象だ。西部邁[※03-03]の言うように、「ソシオエコノミクス」アプローチが必要だということだ。

 精読している訳ではないが、若干、数式の表記ミスがあるようだ(弊社経済研究担当菅野守メモ)。特に、消費の実質利子弾力性[※03-04]の定義は誤っているようだ。これは統計の専門的な話になるが、政府の統計関係の多くの委員をしているせいか、政府系データへの批判がないことが気になる。指定統計である「家計調査」は世界に類例のない貴重な長期データだが、サンプリング方法が明らかにされていない。任意サンプルである可能性が高く、仮説構築には使えるが、検証には使えない。被験者に公務員が多いのではなど偏りが指摘されている。「調査のクセ」と呼ばれている。さらに、GDP(新SNA)のマクロデータとの整合性がとれないという「謎」がある。宇南山氏は、この乖離は解けたとする論文もあるが、すべての専門家が納得するには至っていない。乖離したままでいいのか、という問題が残る。これを補完する意味で、カードなどの補完を提案している。

 消費は極めて複雑である。個人でも、世帯でもそうである。その原因は、性、年代などの属性の多様性が高いからである。戦後からのデータなので、話題の20年区分の世代分析もできない。この書籍は、これへの挑戦として高く評価したい。理論のある実証を久しぶりに見せてもらった。

 しかし、数々の賞をとっている本書であるが、評者が、複数均衡で知られる福田慎一氏などの東京大学経済学系の研究者が多く、著者が東京大学のマクロ経済をリードした吉川洋門下であることもあり、若干「お手盛り」感があるところが残念だ。これも老人性の妄想であろう。

04

価値に根拠を与える欲望という幻想

 マーケティングを学問という見地からみるとこれほど情けないものはない。1920年代にアメリカ経済学会から分岐して誕生した。従って、スミスの国富論を祖とする経済学と同じと言えなくもない。生産者などの売手が生活に必要なものを市場化(マーケティング)する市場創造の科学と体系なので、市場成立を前提とする経済学とは異なる。企業の実践が先行し、後付けられたものである。マーケティング体系で知られるP.コトラーももとは、「右」の「フリードマン[※04-01] 」から学び「左」の「サミュエルソン[※04-02] 」に師事するという「変節的な」数学の得意な経済学研究者なので、初期の「マーケティングマネジメント」などでは、市場メカニズムとしてのマーケティングの機能を、経済学との整合性を意識して展開している。

 従って、そもそもマーケティングにはよって立つ理論がない。雑学マーケティングが成立し、風俗マーケティングが跋扈することになる。

 最近の経済学は、40-50代の若手を中心に、「マ-ケットデザイン」などの研究が進み、売り手と買い手のマッチングやメカニズムを議論できるようになっている。しかし、学校選択や医療の研修医問題などで取り上げられているが、民間企業での成果はあまりない。どうも数学的形式による証明と帰結に拘りすぎて、実証性がなく解決策にはならない。そもそも企業事例に疎く、経済学以外の理論が弱すぎるようだ。テレビなどでコメントを求められても「ひかる」発言ができない。

 マーケティング理論が情けないのは、存立を保証する欲望論と価値論がないからだ。市場創造、ある商品サービスを想定すれば、顧客創造になるが、顧客と交換するには、売り手は、顧客に価値を提供し、対価を頂くという関係が必要になる。それには、欲望を根拠とする価値という理解が必要になる。これが成立していると前提にするのが市場を抽象レベルで捉える経済学で、これを成立させると具体性の次元で考えるのがマーケティングだ。従って、顧客の欲望が何で、どんな価値を望んでいるのか、という説明ができなければ何も始まらない。およそどう説明されるかは決まっていて、欲望は、ニーズという何らかの欠乏と捉えられ、欲望そのものはマズローの欲望論が引用される。これが嘘の論理であり、後付けの説明であることは、現代企業の実践で使えないことから明らかだ。

 余談だが、最近は、誰でもがマーケティングを冠につけた呼称をタイトルに、マーケティングの専門家を名乗る。もし名乗るなら次の三つの条件を満たすべきだ。ひとつは、100以上の事例を学び研究していること、ふたつ目は、アメリカのMBAで使われる教科書レベルの理論を学んでいること、そして、三つ目に、複数の業界の30以上のマーケティングプロジェクトに参加した経験を持つことである。

 この基準をあてはめると、日本でマーケティングの専門家と名乗ることのできるのは、研究者や専門経営者を含めてほぼいないことがわかる。代理店系や一業種一社の経験などはこの条件を満たさない。専門経営者と名乗る人々も、権力維持に汲汲として株価をあげる程度の仕事しかできない。

 このような要因をつくっているのは、マーケティングには礎石となる理論がないからだ。雑学で済むからだ。インタビューや取材では大理論には太刀打ちできない。長い間、情けないと思ってきた理由だ。顧客の欲望ではなく、もっと軽い選好の公理的条件を前提にして、無差別曲線から需要量と価格の需要曲線を導き出す数学的な形式だけのミクロ経済の論理の方がマシかもしれない。

 さて、それでは欠落をどう補完していくかと考えると容易ではない。哲学や思想を含めて諸科学の総動員を必要とする。個人的には要点だけだが、かく考えている。

 欲望とは、遺伝子に根拠を持つ生物及び動物に根拠を持つ栄養素を補給するために食べる、寒さや暑さを凌いだり、雨風から身体を守ったり、次世代を残す生殖などの基礎にするものであり、さらに欲望充足のために発達した精神及び肉体をもとに、希少性などの社会的条件によって、あらゆる志向性に多元化した、欲しいという志向性である。つまり、欲望とは遺伝子の生存を基礎とし、生存する社会に制約されて、多数化し、多元化し、無際限化した対象への志向性である。具体的には、商品サービスへの消費や所有欲求から文化的社会的な役割、自らの生きがいとの関わりなどが欲望として現れる。しかし、欲望は、商品サービスによって充足されるものではなく、働くことや他者との関係性などによっても満たされるものである。家族や権力への欲望などである。商品サービスが、欲望の対象となるのは、属性や特長レベルの特性から、社会的イメージ、記号性や生きがいとの関わりに至るまですべての対象性に及ぶ。家族関係のなかでエディプスコンプレックス(去勢不安)やエレクトラコンプレックスが「父親(権力者)殺し」によって、権力を獲得したいという欲望を生み、共同性を獲得したものが共同幻想としての「国家」である。従って、物質的な対象ではなく、あらゆる幻想、社会や国家の「変革」や「革命」も欲望の対象となる。従って、欲望は潮の満ち引きのように、増幅(夢中)したり、減衰(飽き)したりする波動性を持つ。

 欲望は、精神分析的には、リビドーと仮想され、「産み落とされ」、自力で生存できないことへの不安から生まれる。商品サービスを対象とする欲望は、多数性、多元性、無際限性を持っている。さらに、個人になればさらに個別化される。しかし、商品サービスが充足する欲望は、社会的欲望であって、個人欲望ではない。「ワン・ツー・ワンマーケティング」や「個客創造」が有効でないのは、欲望は個人が持っているが、その欲望は他者との関係という社会性を持ち、限られた経済資源の活用という制約によって社会化されるからである。欲望は、多数性、多元性、無際限性、波動性、社会性をもっている。

 マーケティングの基礎として、欲望論や価値論の基礎が必要である。基礎となる文献を読みこなすことが必要だ。それら押さえねば、風俗として単なる話題商品、面白広告、炎上SNSで終わってしまう。限られた企業のマーケティング予算の社会的無駄遣いである。

 価値論は、日本では、1920年代の大正時代、J.ラスキン[※04-03]の固有価値論が紹介され、松下幸之助の「水道哲学」に影響を与えたとも言われる(長幸男[※04-04]「実業の思想」)。戦後は、日本が戦後復興期から高度経済成長に向かう時代に、見田宗介[※04-05]や作田啓一[※04-06]などの社会学者が「価値論」を展開した。そして、1990年代の初頭は、地価の高騰と下落が、人々の価格-価値意識を大きく変えた。30-40年という単位で価値が重要になっている。それは時代の転換期に、これまで大切にしてきた価値が揺らぐからである。

 まさに、2020年代も、人々の生き方としての価値が変わる時代である。価値論、欲望論なきマーケティング理論を嘆くばかりでなく、思想に裏づけられた価値論の理解がなければ、マーケティング策の立案に臨むことはできないのではないか。

05

動画配信で見た世界共通の中流生活

 コロナ禍の生活の影響で、Netflixなどの動画配信を楽しむ習慣ができた。特に、刑事ドラマやサスペンスをよくみる。イギリス、フランス、ドイツ、ポーランド、スウェーデンなどの北欧、スペイン、イタリア、そして、アジアでは、韓国、インドやタイ、そして、メキシコなどのドラマシリーズをよくみる。1シーズン10エピソードを何シーズンもみる。イギリスなら「名探偵ポワロシリーズ」「ヴェラ~執念の女警部」、「刑事モース」、「ブラウン神父」などである。話は、不可解な事件がおこり、刑事が推理して、犯人をつきとめるというものだ。痴呆症の防止のための推理に多くの機会費用を割いている。

 そこで見えてきたものは、世界の中流生活である。恐ろしいほどの同質性がある。日本の高度経済成長の1970年代は、霞ヶ関や丸の内で働くサラリーマンの暮らす世田谷などの郊外が形成され、延伸していく歴史である。持ち家戸建て、最新家電で装備され、自家用車があり、家族がスマホで連絡をとる。この中流生活の財の所有パターンは、国は違ってもまったく同じである。違うのは、風景と階級社会の残存だ。イギリスの田園風景、ドイツの高速道路の風景、アメリカの広大な平野の区画整備、そして、アジアの高層マンション風景だ。

 世界でもっとも分厚い中流層を形成したのが日本だ。そして、実態ではなく、意識の上で、もっとも中流層が減少しているのも日本だ。経済成長は、中流層の伸び率に依存しているようだ。

 人々が同質財を選好し、量産効果が働き、収益率が高くなる、という収穫逓増の仕組みだ。これが動画配信でみえてきた成長の図式だ。中流を卒業した人々の欲望は、個々に異なる生きがいだ。当然のことだが、生きがい価値は量産できない。ここに日本の経済の苦しさがある。「多様性の経済」(J.ジェイコブス[※05-01])を目指すしかない(「再成長の利他的マーケティングの組立て―21世紀の企業存立に向けて」)。

06

イギリスドラマで保守思想が学べるという話

 保守思想とは何か。これは、年を重ねると安定した考えを持ちたくなるものだが、案外難しい。

 さらに、この保守思想を腑に落ちる、活用できるまで理解するのは、思いのほか難しいものだ。

 個人的には、自死した西部邁や福田恆存[※06-01]らから多くを学んだ。もっとも影響を受けた西部さんにもっとも影響を与えたのは、18世紀のフランス革命を批判したE.バーク[※06-02]などである。そもそも保守思想史という観点からみると、フランス革命の自由・平等・博愛の理念を批判する形でイギリスに保守思想の種がまかれた。その系譜を辿っていくと、G.K.チェスタトン[※06-03]に行き着く。チェスタトンから学ぼうとして、「正統とは何か」を読んでみると極めて難解である。頭でわかっても問題意識が共有できない。

 なぜなら思想が生まれる生活経験がわからないからだ。それ以来、チェスタトンは諦めてきた。従って、腹からの理解として、一度座ったら立ち上がりたくないという感覚が保守思想の感情的根拠であると考えてきた。経済学的には、ハイエク[※06-04]の経済思想だが、「自生的秩序」もわかったようでわからない概念だ。難しいのは経験に置き換えられないからだ。

 ところが、コロナ禍で、この保守思想が簡単に理解し、学べることがわかった。イギリスのBBC放送の「ブラウン神父」シリーズを視聴すればいいのだ。およそ10話10シーズンもあるが、話が安定して面白い。

 ここで描かれるのは、イギリスの村落の話であり、その「教区」の教会の神父の話である。この神父が名探偵で、村落に起こった事件を、村落の「行政区」の警察とともに解いていくという話だ。実は、この原作が、例の難解で手に負えなかったチェスタトンである。学校では、イギリスは、王の離婚問題を契機に、カトリックから独立し、プロテスタントとみなされる「国教会」のキリスト教徒だと教えられた(「世界史」山川出版社)。しかし、伝統的にはカトリックであるようだ。

 このドラマを繰り返し見ていると、イギリス社会が見えてくる。

 村落は、広大な緑に包まれて、階級社会で構成され、貴族は城のような邸宅に住み、農民や労働者は、庭のある石の家に住む。貴族は狩りやゴルフを楽しみ、様々なパーティを開いて暮らす。農民労働者はお互いが知人であり、相互扶助の関係にある。そして、この地域の結婚、葬儀、チャリティやクリスマスを祝うなどの場となり、村落の繋がりの基盤として精神的絆となり、郷土愛を育み、精神的に領導している役割を担っているのが、神父あり、教会である。

 チェスタトンが描いているイギリス社会とはこのような暮らしぶりである。精神的にも、経済的にも、極めて安定した社会が描かれている。保守思想が息づく生活とはこういうものである。こうした考えを補強してくれるのが、「刑事モース」や「ヴェラ~信念の女警部」である。特に、イギリスの田園風景が暮らしぶりとしての保守思想に大きな影響を与えていることはよくわかる。

 この安定した村落共同体に事件が起きる。押し寄せる資本主義化的な開発の波、都会からの乱入、村落での人間関係の歪みなどが契機となる。それを、この地域を行政区として管轄しているのが警察であり、彼らと対立的に協調的に解いていくのが主人公の神父ブラウンである。神父は、科学的な推理力と神の教えをもとに、犯罪ではなく、善悪を裁断していく。保守思想を体現するセリフも魅力だ。科学と神の教えは対立するものではなく、神は真実を求めているという解釈などが現代的だ。

 動画配信で、楽しみながらイギリスの保守思想が学べる、という話である。時間が余った際にはおすすめである。逆に、フランスのドラマからは、革新思想も学べる、また、ドイツでは、哲学や精神の闇を知ることができる。

07

「大衆の原像」という鏡

 ある思想や哲学の真偽を判断することは難しい。親鸞の教えの真偽を、信者か、非信者かは別にしも、合理的に判断するには少なくとも判断尺度と評価がいる。日蓮は偽としたが、その根拠は仏の教えの本義は「浄土三部経」ではなく「法華経」にあるとするものである。これは理論のブッダの教えの正統性による判断だ。現代の仏教研究の考証では日蓮が正しい。しかし、親鸞の読み解いた教えが偽と言えるかどうかはわからない。寧ろ、大衆の救済という意味おいては真である。マルクス[※07-01]の思想を裁断するのも同じである。マルクスの理論の正統性で評価するには、マルクス思想を定義し、命題に集約して真偽を問うことが必要だ。しかし、思想を別の思想から派生した実証主義的方法で判断することは不可能である。そもそも「大理論」(「中範囲の理論」マートン[※07-02])は検証不能である。

 この難しい判断に、「大衆の原像」という基準を持ち込んだのは、吉本隆明である。吉本は、思想や理論というものは、どれだけ現状を取り込めるか、言い方を変えれば、「大衆の原像」を捉えることができるかで真贋がわかるとした。

 戦後、戦争迎合や協力で転向批判された文化人(「中野重治[※07-03]」など)もそれを批判した批評家(「花田清輝[※07-04]」など)も吉本は斬り捨てた。野坂参三[※07-05]などの正統派左翼、中野重治などの転向組、そして、左翼シンパの花田清輝なども一刀両断にした。

 その際に、用いたのが「大衆の原像」という基準である。思想や哲学の真偽の「鏡」としての原像である。

 余談だが、経営やマーケティングを生業にする人々にとって、「大衆の原像」という考え方が、いかに魅力あるものであるかはわかるはずだ。マーケティング政策の価値判断の基準になるものだからだ。それが定位できわかれば有難い。マーケターは、大衆をベースに、消費の動向を捉え、新商品を発想し、共感を得られるコミュニケーションを発想する。その際に、リサーチデータを腑に落ちるまで理解しないと自信の持てる解釈や発想はできない。従って、ややもすれば広告代理店的な思いつきや独善に陥る。多くの新商品が失敗し、ファッドで終わり、テレビCMは、人気はでるが売れないものばかりになる。

 これは大衆である消費者の捉え方が本当ではなかったからだ。大衆の原像を真芯で捉えられなかったからだ。

 吉本さんは、大衆の原像を、文字としても、映像としても、メディアにも登場せず、生活に邁進する人々を大衆として捉えた。あらゆる量的及び質的データを利用しても補足できない存在とみた。いくら若者にインタビューしても世代などわかる訳がない。日記などの後述記録も拒否した。つまり、測定できない対象としての大衆である。測定できないという意味で、この概念は、「常民」、「世相」などの柳田国男の概念に近いかもしれない。

 大衆とは、歴史的には、個の集合を超える群衆=群衆、つまり、大衆の出現は一定の近代化を前提にしている。

 大衆は、市民革命によって生まれた市民、労働者や農民を「群衆化」したものである。マルクスは、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日[※07-06]」のなかで、フランスの19世紀中頃の政治変革を、資本家や労働者という階級概念ではなく、大衆という言葉を巧みに活用し、階級的支持ではなく、大衆的支持による「ナポレオン3世」の登場を分析している。人々が大衆化するには、集まる場所、大量輸送のできる交通機関、メディアの発達を前提にしている。日本なら日露戦争後のロシアとの和平交渉への不満から起こった、1905年の「日比谷焼き討ち」騒動が大衆の成立の契機かもしれない。

 大衆の原像は、対象としては補足できない生活本位の市井の「草莽(吉田松陰[※07-07])」のような存在であり、吉本さんにとっては、自分の鏡としての理念でもある。吉本全集をあさってみると、実際、具体像として思い描いていたのは、長崎出身の船大工の下町の「父親」や「母親」が想定されていたようだ。そして、何よりも自分のなかにある大衆性を鏡のように原像として捉えていたようだ。吉本さんは「ミーハー」であった。

 あらゆる思想の判断基準となる大衆の原像を捉えるには、利害を排した客観的なデータをもとにして、内なる大衆性を鏡にすることによってやっと措定できそうなものである。この意味で、戦後、大衆を捉えることはできただろうか。人生相談、日記、新聞記事などのあらゆる質的データを駆使した見田宗介の試みがある。きれい事で内なる下世話な大衆性を踏まえた分析にはほど遠いという印象だ。それ以後の社会学的試みは、大衆の周辺を掘り返し、下世話すぎて話にならない。

 マーケティングは、大衆を捉えて、政策を立案しようとする企業サイドの政策体系である。従って、利益がかかっているがゆえに、真なる大衆を捉えようとするプラグマティズム[※07-08]の要請がある。

 真実性の追求において、吉本さんの掴もうとして掴み得ない大衆の原像は大変重要な概念である。21世紀を20年過ぎて、大衆の原像はどう捉え、どう理解することができるのか、考え続けねばならない課題である。

 他方で、保守思想家を名乗った西部邁は、「大衆」を生涯の敵とみなした。近代に入って大衆化の波は、すべての社会を覆った。J.オルテガは、貴族の生活文化にズケズケと乱入する大衆を「反逆」として文明の堕落とみた。吉本さんとは、対称的な価値判断である。個人的には西部さんに同調したいところだが、大衆の否定=貴族主義=エリート主義というヨーロッパの伝統とは違い、日本では、大衆の否定=公家ではなく、武士を持ち出すしかなく、日本では戻るべきエートス[※07-09]がない。それは、日本では、徳川武士支配層を、明治維新によって倒したのが、やはり武士であるからだ。従って、戻るべき原点がないのが日本の保守の最大の問題だ。すべては、衆生としての大衆の解釈に委ねるしかない。

 ところで、根本的な問題として、吉本さんは、生涯、大衆の原像を捉えることに成功したのだろうか。私は、見誤ったのだと思う。それは、戦後の吉本さんが、大衆の原像を捉えうる共同幻想論[※07-10]や心的現象論[※07-11]という理論構築からはじめたように、原点である共同幻想論、特に、対幻想[※07-12]や心的現象論の時間-空間の枠組みによる捉え方を間違えたのではないかと思う。それが典型的に現れるのが消費社会論だ。これは能力の限界を超えるものであるが、改めて論じてみたい。

 現代のような不確実性の高い時代には、生き方としての価値観が多様化する。中流層という生き方が、将来的に生き残ることが難しくなり、多様な価値ライフスタイルに分岐する。分岐すればどれかの生き方が成功する可能性があるからだ。生き残ることを目的とする生活論理の遺伝子的な多様化戦略である。

 答えがでるのは、ひと世代、20年後である。大衆的な中流の生き方が、どう分岐し、どんな生き方が生き残っていくかを見つけるのが、現代に大衆の原像をみつけることだろう。

08

成長を求めない経済は可能かー利他的資本主義への道

 およそ半世紀前に社会人になって、嫌だったことは、会社でのノルマや数字追求に追われることである。

 この齷齪して働き利益をひねり出す宗教と小集団をつくりあげたのが稲盛和夫である。マスコミで稲盛さんが褒められる度に、私が戦略経理論と組織論を教わった先生を思い出す。先生は、「あれは宗教だよ」とよく切り捨てていた。個人的に確信したのは「実学の思想」を読んでからである。利益は概念であって、眼に見えるものではない。それを眼に見えるようにするのが稲盛の小集団による利益管理と計算である。零細企業の経営者として自分なりに稲盛教を昇華したシステムをつくってきた。

 さて、時間やノルマから逃げる宗教が「非成長経済」である。左かぶれやドイツ帰りのグリーン一派[※08-01]が陥る宗教でもある。

 マルクスには、「単純再生産表式」と「拡大再生産表式」[※08-02]というものがある。マルクスの弁証法[※08-03]では、商品が貨幣に転化し、貨幣が資本に転化する。資本の本質は、初期は労働者の労働を搾取したり、現代では、時間的な価値の落差を利用したりして、価値を創造し、価値を資本に変えて、再び、それを再生産に活用する。資本は、利益を求めて拡大し、資本蓄積する。拡大再生産が資本主義の本質であり、昼夜のない資本の論理が、労働者を包摂する。拡大し成長するのが資本の本質である。しかし、資本の前では、自由・平等・ベンタム[※08-04](功利)が文明として保証される。

 非成長や反成長の論理の行き着く先は、「空想的社会主義[※08-05]」とマルクスが批判したサン=シモン[※08-06]などの何らかの方法で欲望を抑制したコミューンをつくるか、欲望を集約して計画経済にするしかない。前者は、様々な人々が実践してきたが、閉鎖集団化して、分裂してやがて消滅する。後者は、ソビエト連邦の崩壊や「ベルリンの壁」で、計画経済の失敗を経験した。

 従って、宗教以外に、自由と平等を建前で保証しながら経済制度として、資本主義以外に「欲望の体系」(ヘーゲル[※08-07])をうまく社会化できない。その代償が成長ということになる。そもそも、朝起きて夜に寝て昼は働くという中流生活の生活規律を生み出したのが資本主義である。単純に、時間や数字に追いまくられる生活から自由になることは安易ではない。  

 しかし、人間が生産から解放される日は、AIやロボットの進化を想定すれば遠くない。成長の論理とうまく折り合いをつけながら暮らし、よりよい資本主義へとバージョンアップするしかない。それが芥川龍之介の描いた「天国」のような「利他的資本主義」だと思っている。

09

中年バブル後世代の老害批判を「論破」するー場外乱闘の論理

 戦後日本で、最初のデフレマインドの世代が、1980年代生まれのバブル後世代だ。日本の平均年齢は44歳に近づいている。この世代の本質は、14-17歳という価値観の形成期に、世の中の価値観が二転三転したことだ。親世代の「思想的転向」を眼にし、バブル崩壊後の家族の解体を経験していることだ。彼らは、欲望を解放することではなく、欲望を禁じることに価値を見いだす。企業社会を担うのは、この世代なので、大いに期待したい。

 しかし、マスコミの表層に出てくる知識人面をした連中は、「高齢者は集団自決」すべきだとか、やたら反則技の「論破」が好きな中年、マルクスを読みもしない非成長論の農本主義[※09-01]学者など気に食わない。何か、彼らの親世代の「ニューアカ[※09-02]」の浅田彰を連想させる。国立京都大学で職を得て、年功序列で教授になり、税金で禄を食み、経済研究成果はゼロという情けなさだ。

 実は、彼らの戦法は同じだ。主張とは、命題の連結である。これを演繹や帰納によって推理する。しかし、この命題が成り立つには、一定の枠組み=前提が必要だ。この土俵のなかで論理が検証される。彼らの共通の戦法は、土俵を壊して、相手の知らない情報で、主張することだ。その主張をさせているのは、推論ではなく、アメリカやドイツ帰りという「舶来」の権威であり、「ネット民」という大衆への心情である。浅田彰の場合は、ドゥルーズやデリダ[※09-03]というフランス現代哲学だった。当時、誰もが知らない連中を引用して、人間の欲望を包摂する機械が世界を支配している。それから逃れる方法は「逃走」しかないという愚論を振りまいた。その後、ドゥルーズやガタリが翻訳されてみると、何の論証もない、なんとなく、フロイトの欲望論を潜在的な社会次元に拡張した構造主義的発想によるジャーゴンであるに過ぎないことがわかった。よほど、ネグリ[※09-04]の「帝国」の方がマシだった。

 ただ、浅田彰と異なるのは、彼らの父親=既成社会と見なし、激しく「父親殺し」の無意識がみられることだ。フランスは、市民革命で、父親=王を殺した国柄だ(M.フーコー[※09-05])。対して、2000年以上に亘り、日本は父親=天皇を頂いている国だ。彼らには、これまでにない日本人の父親殺しの無意識を感じる。

10

老害どころかシルバーが日本を幸福にする-誰が利他権現か

 生物学や解剖学という馴染みのない学問領域で、驚くような知見がうまれるときがある。

  小林武彦[※10-01]の「生物はなぜ死ぬのか」と「なぜヒトだけが老いるのか」を読んでたいへん啓蒙された。死と老化の問題である。

 ジャック・モノー[※10-02]の「偶然と必然」、多田富雄[※10-03]の「免疫の意味論」、三木成夫[※10-04]の「胎児の世界 人類の生命記憶」などは私の世界観や人間観に大きな影響を与えた。生物の実体である遺伝子のタンパク質の偶然的発現が時間的必然性である進化に取り込まれていく、というモノーの見方は驚きだった。内容を理解するのに10年はかかった。多田の「免疫の意味論」は、自己と非自己を区別するものは免疫である。そして、免疫の根幹である多様な抗体の出現のメカニズムは、利根川進[※10-05]の「免疫の多様性」研究の意味論的解説とてとても大事な学習だった。三木先生の「胎児の世界」は、こころの生物的基礎を明らかにするような内容で、人間の持っている生物性と動物性に驚きの視点を与えてくれた。ヘッケル[※10-06]の「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題を圧倒的な図像描写によってリアルに教えてくれた。

 こうしたテーマの発展でもある、死とか、老いというものを生物学的に捉えたものだ。西欧では、死んだら天国に召されるというようなキリスト教的世界観を除けば、死とは突然機械が止まるようなもので、死んだら死にきりのような死生観だ。日本では、儒教では死を魂魄が分離したものとして、魂(魂)が魄(身体)を離れた状態として捉えるので、魂が戻って魄を探しやすいように魄の代わりに墓を建てる。仏教では、死がなく、輪廻転生するだけである。

 さて、小林の生物学的な死の斬り方は進化生物学的である。地球が生まれて47億年、生命が誕生した35億年前に遡る。生命とは、有機物から細胞が生まれ、細胞に遺伝子が組み込まれ、次世代に受け継がれる状態にあることを言う。つまり、生命とは、遺伝子であるDNAを持った遺伝子が組み込まれた細胞状態であり、その細胞は、時間軸で選択と淘汰を受けて、引き継がれ、進化していく。死とは、時間経緯の過程で起こる淘汰と選択の結果である。つまり、現状とは異なる、偶然的な突然変異によって多様性が生まれ、淘汰によって多様性のなかから生き残るものが必然性として選択される。死とは、進化圧力を受けた生物が、生き残るための多様性を生み、選択された結果である、というのが小林の結論だ。死があることによって、次世代に生き残る生が生まれるのだ。死とは、人間が生き残るための多様性の戦略の結果だ、というのは驚くべき視点だ。

 老化とは何か。老化を、生殖可能期間と定義する。人間では、女性の閉経から平均余命までの時間が老化の生物学的定義だ。この定義で動物を定義してみると、ほとんどの動物には老後がない。99%遺伝子が同じであるチンパンジーでも閉経と死はほぼ同じだ。ここで再び進化的観点からみると、チンパンジーからヒトが進化するのは、およそ600~700万年ということになる。その間に、老化は生まれたことになる。それはなぜか。その原因を小林は、チンパンジーとヒトの大きな差である毛がないこと、そして、乳児期間が長いことに見いだす。つまり、ヒトは、毛がないので乳児は親と離れざるを得ない、さらに、乳児が離れないと両手が塞がれているので、親はエサを食べることもとることもできない。そこで、おばあちゃんチンパンジーが生まれたという。この他人を助け、他人にいろいろなものを教える存在として、進化的要請として生まれたのが老化だという。つまり、自己利益ではない利他志向の存在が必要とされ、その担い手として老人(シルバー)が誕生するとしている。そして、老人のいる社会と老人のいない社会を比べると前者の社会が様々な社会的パフォーマンスが高いことを示している。因みに、小林によれば、日本の研究力が低下している背景には、政府の予算削減に加えて、研究成果を生む50-60代で役職交代や退職を余儀なくされ、人口減少で研究者の新参入が少ないことが、実質研究力で2位だった日本が将来的には20位にまで落ち込む背景となっていると論じている。欧米のように研究機関を年齢で区切らないで延長し、政府予算を効率的に配分することが必要だと解いている。

 死とは、ヒトがあらゆる環境に対応するために必要なことであり、老化とは、ヒトが個体的に成人し、社会の幸福のための利他的調整者として生み出したものである、という見識には驚くと共に、改めてシルバーの役割を認識させられた次第である。

 帰結は全面的首肯できるものの論争にはいささか疑問がある。この論理の論証法には、発生史的方法=進化的方法が使われている。死を定義する際に、生命活動の停止というような機能的定義ではなく、その発生的起源を想定する方法だ。

 ニーチェ[※10-07]的方法論である。例えば、善悪の起源というようなアプローチである。社会の何が善で悪であるかは、勝者が決め、敗者に押しつけるものだ。従って、現代の善とは、勝者のルールの押しつけであるという帰結するような方法である。

 やはり、小林の論証は、生物の進化を前提に成り立っている。この前提である自然時間が過去から将来へ流れて、種は選択されて淘汰されるということが前提となっている。これは、果たしてそうか、という疑問が残る。ダーウィン的な「選択と淘汰」ではなく、種の多様性が増大して、生息密度が高まっているからではないか(今西錦司[※10-08]「私の進化論」)。ニュートン的な絶対時間を想定するので、そう見えるのであって、一般相対論的な「多次元宇宙論」からみれば、見当もつかないが、別の視座があるのはないか、などと思ってみる。

 しかし、これに代わる代案を持たないので、大仮説として賞賛したい。小林は、長生きすることの意味、そして、シルバーの社会的存在を、世界で初めて生物学的及び進化的に位置づけた研究者である。利他的資本主義を基礎づける理論として、後付けではあるが大いに学ばせて頂いた。

11

年代が世代に言い換えられる-世代論

 年代という言葉が使われなくなってきた。世代に拘ってきたので、マスコミの使う言葉の変化に注目してきたが、まずは、調査リテラシーの低い民放が、年代を世代と言い換え始めた。最近では、調査に強かったNHKや朝日新聞までも、年代を世代と言い換えて報道している。Z世代などが話題になり、流行ものに縋ろうとする付和雷同意識からか年代は使わない。従って、「子育て世代」という言葉がまかり通る。世代とは生年に規定された意識を一生持ってまわるものである。少々考えれば、一生子育てする世代がいる訳がない。「シルバー世代」も不満だ。シルバーで生まれシルバーで寿命をまっとうする世代はいない。年代論を復活させないと加齢効果を見失うことになる。

 日本では、世代論は成り立ちにくい。天皇の系譜的世代論である和暦があるからだ。従って、時代を和暦で捉える。昭和世代という言い方である。変化は、時代、世代、年代(加齢)によって生まれる。欧米では、この三つが明確に区別され、哲学的に理論が深い。日本には、和暦によって時代を語るので、世代的歴史観が定着しない。若者偏重の世代論であり、面白ければそれでいいという代理店発想ですまされる。

 グローバルな時代、生活体験が共通化しているなかで、日本のガラパゴス的世代論を一掃し、X-Y-Z-α のような20年区分の世界共通の世代論にすべきだろう。

12

バブル後世代=就職氷河期世代と呼ぶ愚かさ

 1980年代生まれの世代を「バブル後世代」と定義した。バブル後に、価値観を形成する12-16才を通過したからだ。最近、「就職氷河期世代」と呼ぶようになった。詳細は知らないが、政府のどこかの委員会で保険屋シンクタンクが言い始めたのが切っ掛けらしい。確かにこの世代は、バブル崩壊後の「失われた20年」に職につこうとして苦労した。世代は歴史問題である。ここに、気の毒などという感情や無理矢理の経済損失を計算して救済しようとなるとこれは、歴史を歪める大罪である。

 就職難より厳しい戦争経験をした世代、石原慎太郎などの焼跡世代はどう救済するのか、という話になる。そもそも「失われた20年」は、アメリカの「失われた世代」の世代を20年(時代)に置き換えたものだ。この世代は、ヘミングウェイ[※12-01]に代表される「第一次世界大戦」と「第二次世界大戦」を経験した世代だ。まったく気の毒なのか、二度も自らの愛国心を試す機会に恵まれ、「本当の勇気」(ドイツ参謀本部モルトケ言)を獲得できた、と考えるのか。歴史が決定するものだ。

 世代が時代を生み、時代が世代を生む。歴史とはそういうものであり、歴史に刃向かうことは躊躇すべきだ。「就職氷河期世代」などと呼び、気の毒だから救済する、と考えるのではなく、歴史を受け入れるべきだ。年末、人事院が「就職氷河期」世代に限定して公務員を募集するという愚に接し、次は、精神疾患の多いコロナ世代の救済か、と気の毒主義の蔓延に憤慨する。

13

お金がなくてもタクシーに乗る若者-バブル後世代以後

 「クルマ買うなんてバカじゃないの」(「嫌消費世代の研究」)という話を若者から耳にし始めたのは、バブル崩壊から約10年後の2000年頃からだ。まさに、1980年代生まれのバブル後世代が20代に成長してからだ。あれから20年、最近では「お金がなくてもタクシーに乗る若者」が増えている。どうも配車アプリのCMなどでタクシー利用のハードルが下がり、利便性が高まったからのようだ。

 この20年間の20代層の意識変化は、20年区分世代が交代したことによる効果だ。相変わらず1980年代生まれは消費にネガティブな態度だ。20年を経てもお金を遣う感覚は変わらない。昔ほど世代で説明できることは少なくなってきているが、世代が夜空の恒星のように、同じ価値意識に止まっている証拠はある(消費社会白書2024)

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貧困女子とは何かー貧困の本質とは何か

 貧困女子が話題になった。貧困女子本を読むと、貧困を社会問題化したいようだ。しかし、貧困の内容は、明治初期の「女工哀史」や「明治東京下層生活誌」のような絶対的貧困の世界ではない。いわゆる相対的貧困率であったり、他者が持っている財やサービスが入手できなかったりという問題である。この問題の本質は、個人的貧困であり、家族や地域社会が解決してきた社会的包摂力が消えた、ということにある。江戸なら貧乏長屋で、カシーカリの紐帯関係で暮らしていく関係性が失われたということである。無名性が保証される東京は生きやすい。反面、個人的貧困にはなすすべがない。

 後期消費社会の貧困問題とは、個人の生きがいの問題であり、共同体的な救済のない都市の無名性の問題である。従って、生きがいや誇りを救済する時代に入ったということもできる。これは、生活保護の対象となる絶対的貧困の社会問題とは区別すべきことである。

15

消費社会のOLの存在-改めて吉本-埴谷論争を問う

 丸の内で制服をきた、いわゆる「一般職」風の「OL」にお目にかかる機会がめっきり減った。バブル期の消費社会の主役は、「an・an」や「non-no」の読者であるOLだった。1984年、戦後最大の思想家と言われ、「全共闘」世代の「団塊世代」に大きな影響を与えた吉本隆明[※15-01]は、an・anに「コム・デ・ギャルソン」を着て登場した。それをみた戦後最大の形而上学[※15-02]作家であり、大作「死霊」の作者である埴谷雄高[※15-03]が「資本主義のぼったくり商品を着ている」と揶揄し、シャンデリアなどの吉本家の所有財にも因縁をつけた。これに激怒した吉本隆明が埴谷を徹底的にこき下ろした。これが吉本-埴谷の「コム・デ・ギャルソン論争」である。

 この論争の根底には、女性労働者が、資本主義の消費社会化にともない、自分の欲望をファッション消費によって解放している姿をどうみるかという論争だった。吉本は、女性労働者の消費欲望の解放を「文明化作用」(K.マルクス)とみたのに対し、埴谷は「女工哀史」にある労働以外の生活をも資本の論理によって包摂しようとする新たな搾取形態とみた。コム・デ・ギャルソンは、カラダの線をみせない、真っ黒なカラス服で知られる川久保玲が率いていた。

 非資本主義的な年功序列、終身雇用、社員主権の「日本的経営」が世界を席巻し、量産によるフレキシブルなフォーディズム[※15-04]が世界市場で圧倒的に強かった。女性労働者の消費欲望の解放が人間解放に繋がると思われた。日本的経営による生産と欲望の解放による消費の両輪で動く、新しい段階の日本的資本主義の時代が来ると思われた。

 結果、欧米資本主義に敗れた。そして現在では、埴谷雄高の資本主義が日本を支配し、新たな階層社会を生み出そうとしている。肝心なことは、消費欲望の解放よりも消費欲望の制限や禁止が価値を持つ時代になった。そして、OLは消えた。

 吉本の消費社会論が敗れたのである。バブル崩壊から30年、日本は「後期消費社会」という価値を消費する社会に変質した。

16

衰退下でも、世界の名選手が日本ラグビーに集まる魅力

 ラグビーファンなら日本の「リーグワン」に集まるラガーマンの名前に驚くばかりだ。

 フランス大会優勝のデクラーク(SH)、コルビ(WTB)、準優勝のニュージランドからは、ボーデンバレット(SO)、アーロンスミス(SH)、リッチーモウンガ、サムケインなど堂々たる名選手である。フランスW杯よりも面白いゲームが期待できる。

 急激な円安で日本経済の国際的地位が低下するなかで、かくも多くの名選手が日本のクラブチームに結集するのはなぜか。もちろん、世界一うまい食事が世界一安く食べられる魅力があることは、インバウンドの回復でうかがえる。しかし、少々調べてみると、どうも日本のファン層や応援に魅力があるようだ。

 ラグビー選手の戦闘力は、精神諸力と肉体諸力の積である。これらの名選手が日本に集結するのは、精神諸力を養えることにある。彼らは、野球の大谷選手とはまったく反対の理由で日本に来る。

 欧米でクラブチームに所属すれば、傭兵部隊と扱われ、試合ごとにチームが勝って自らが貢献すれば喜んで貰える。しかし、負けて足を引っ張るようなことがあれば徹底的に罵倒される。いくら名選手といえども、彼らも人の子である。こんな日々を送っていれば精神的に疲弊してしまい、戦闘力はゼロになる。対して、日本では勝っても負けても喜んで貰えて、勝つための傭兵部隊とは見なされない。日本では勝敗に拘らない賞賛が得られ、精神諸力を養うことができる。そんな国は日本しかない。それが理由だ。W杯は4年ごとにおこなわれる。2027年のW杯まで4年、次を目指す選手は大挙して日本に集結し、再び、厳しい環境に戻っていく。敢えて、日本にはない厳しい環境で世界一を目指す大谷選手とはまったく反対だ。

 この魅力と限界は、日本が母性原理の社会であることと深く関わっている(河合隼雄[※16-01]「母性社会日本の病理」)。

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オレ・イチバン、という人間類型

 外資系コンサルタントが日本市場で伸びている。そのせいか、ネット上で、「オレ・イチバン」という人間類型が多くなった。その典型が、外資系コンサルタントの草分け的存在である大前研一さんだ。世界から助言を求められている「天上天下唯我独尊」と言って生まれてきた釈迦のような経歴である。しかし、履歴に何を書かれても、海外の評価なのでその凄さが私にはわからない。

 1980年代の大前さんの論理は、「資本の論理」そのものだった。利益追求に妥協はなかった。しかし、ポーター[※17-01]の「競争戦略論」などの外資系コンサルタントの基本フレームが紹介されると、簡単に模倣でき、学習できるものとなった。都知事選で青島幸男に瞬殺され、生活者を知らなかった、と反省の弁を語ったと思えば、マルクスをまったく読んだこともないのがミエミエの「新・資本論」というタイトルを出版したりして、「オレ・イチバン」主張が強くなった。日本の知識人やインテリ層に認められないという劣等感の裏返しが、80才に近づく年齢なのに、「オレ・イチバン」と言いつのっている理由ではないか。総じて、学歴自慢の外資系コンサルタントの「オレ・イチバン」は、インテリ層への承認欲望が強いからではないか。そう考察する。

18

台数調整ではドライバーが泣く-ライドシェアの政治学

 ライドシェア[※18-01]の政府案が出て、24年の4月に限定解除される。タクシーを毎日利用している身としては他人事ではない。特に、コロナ禍で多くのタクシーの運転手さんが退出し、供給台数が減り、コロナで出控えていた利用者が増え、22年の値上げにもかかわらず、需要台数が増え、需給バランスが崩れ、タクシー不足に陥ったことである。東京タクシーセンター管轄の都内で1万人が減少したと言われている。これに、海外からの観光客が増えて、配車できない状況が、羽田や東京駅などで生じている。さらに、配車アプリでも難しい。そこで、一般ドライバーを、アメリカのウーバーや東南アジアのグラブのように、活用しようという案になる。世界最速で1兆円企業になったウーバーは、タクシー業界の「シロタク」キャンペーンと国土交通省の価格統制によって潰された。タクシー業界は、国土交通省の強い規制下におかれている。

 ライドシェアがある生活に慣れている欧米や東南アジアからの旅行客は、日本も当然、自国並みになり、スマホで好きなランクの車やドライバーを選べて利用できるようになるだろうと思うはずだ。諸外国では、車のランクやドライバー、そして運賃を選ぶことができる。ところが出てきた案は、時間や場所を限定し、シロタク批判、病気や酒酔いなどのドライバーと整備不良などの車を、既存のタクシー会社が運用し、アプリ配車も、既存の「Go」や「S.RIDE」で行うようだ。

 この案の本質は、利用者、タクシー事業者、アプリ事業者、タクシードライバー、国土交通省の5利害関係者の利害得失をみてみるとよくわかる。利用者は、供給は増えるが、一般ドライバーとプロドライバーには、経路問題解決力、接客力が違うのに同一運賃を支払うことになり、移動品質に不安が残る。タクシードライバーは、供給台数が増え、一般ドライバーより高い運賃に設定できないので、実車率は下がり、収入は減る。事業者は、点呼や車の管理でコストがかかり、ペイできるかどうかは不明である。ドライバー確保とコストによっては運営が難しくなるかもしれない。経営の不確実性は拡大する。配車アプリの会社は、配車回数が増えるので、確実に売上は増える。国土交通省は、これまで通り、この業界の台数と運賃を管理し、利権を担保できる。

 この案では、タクシードライバーがもっとも損をする。もっとも得をするのは、配車アプリ事業者であり、ジャパンタクシーなどである。そして、この案を主導した、ジャパンタクシーの社長は、タクシー王子と言われ、「日本交通」のオーナーである川辺一郎である。3代目同士で、自民党若手の小泉進次郎と意見があったのかもしれない。このふたりが、国交省案を主導したと報道されている。

 利用者本位の正解は、日本型ではなく、規制緩和によって、制限なしで、運賃も自由に設定できる、諸外国並みのライドシェアを導入することである。この業界で、多様な顧客と多様な車をマッチングさせる市場プラットフォーム競争を展開すべきだ。

19

半導体業界の生き残りー儲からない産業からの撤退と参入

 日の丸半導体復活に向けた投資が進んでいる。自動車用途のパワー半導体製造企業を、政府主導で進めている。半導体には、メモリー、ロジック、ASICなどの分野がある。日本が、嘗て強かったのはメモリーだ。日本の半導体メーカーは、エレキメーカーが多く、多くは内製で消費されていた。エレキはたくさんのメモリーを搭載する。日本は、ビデオやオーディオなどの最終用途を抑え、微細加工技術に優れ、高い収益力で、量産優位のための投資競争に勝てたので、市場優位を確保できた。しかし、最終製品がパソコンやサーバ-に移行すると、シェアが低く、最終製品のシェアが低いので低収益となり、投資競争に勝てずに、微細加工技術を持ちながら敗退した。実際には、サムスン電子に敗れた。

 現在、復活を試みているのは、防衛などの需要を国内で賄うという地政学的理由により、車載やEVなどで使われるパワー半導体の用途をセグメントし、ユーザーもトヨタなどの国内自動車メーカーにターゲティングし、競争は独占状態にして、IBMなどの援助による微細加工技術の復興、そして、巨大な投資を担保する資金力である。

 これだけ成功の鍵をおさえているので復興は間違いないはずである。しかし、市場のダイナミックな変化に対応するような、運を味方にできるような経営力が感じられない。端的に言えば、儲かるのか?ということだ。日本のエレキメーカーは好き嫌いで撤退した訳ではない。儲からないから撤退した。トヨタのような「乾いた雑巾を絞るような」コストに厳しい相手に儲かるのか?最後のツメが残る。

20

「市場の失敗」から「政府の失敗」

 ライドシェアも半導体も政府が経営とマーケティングに踏み込んでいる。経営を官僚に代替して市場対応しようとしている。公務員になるための経済学は、西村和雄「ミクロ経済学入門」というのがもっぱらの声である。これでは経営はできない。市場の独占や寡占は、「市場の失敗」と呼ばれ、経済厚生を低下させる。これからは、「政府の失敗」が研究テーマになりそうである。戦前に、岸信介のおこなった、計画経済による「満州帝国経営」は、最初の「政府の失敗」である。しかし戦後は、この経営は成功とみられていた。官僚能力と経営能力は違う、互換関係にはない、ということを政府は理解していない。これらは、「市場の失敗」よりも「政府の失敗」による税金の無駄遣いである。

21

GAFAMの終焉と生成AIの競争の決着は品質競争への回帰

 この10年、世界情報寡占企業がグローバル市場を席巻してきた。恐ろしい高収益をあげてきた。世界のGAFAM支配が終わるのは、ヨーロッパや日本、さらに、アメリカで規制が厳しくなるということではない。

 GAFAMのビジネスモデルは、市場プラットフォームビジネスである。売り手と買い手をOSのような何らかの機能を土台にして結び、売り手と買い手の相互作用によって、市場を独占化していく仕組みである。OSが典型だ。このビジネスモデルについて部項に譲る。

 OS市場、スマホ市場、電子商取引市場、ネット広告市場、動画配信市場で圧倒的な強さを誇ってきた。「直接的及び間接的ネットワーク外部性」の強さだ。プラットフォームの参加者が増えれば、通信相手が単純に増えて、利便性が高まる。従って、「クリティカルマス」を越えてしまえば寡占化できる。もうひとつは、間接的ネットワーク外部性だ。OSのように、OSの利用者が増えれば対応ソフトも増えて、OSの効用は高まる。

 このように直接及び間接ネットワーク外部性が、ブランドロイヤリティのようなマーケティングで創出したものではない、システム優位を生み出すと思われていた。特に、OSなどは、どんなに不満があっても、「スイッチングコスト[※21-01]」が高くて変えられない。GAFAMの強みとは、数によって生まれたスイッチングコストの高さであった。

 それが21世紀に入って、次々と破られてきた。動画配信サービスは、NETFLIXが強いが、Disney+などの追い上げも激しい。それは、ただのテレビ番組や映画の動画のマッチングでは、どのプラットフォームでも同じコンテンツが見られるなら低価格競争以外に数の優位性を生かすことができない。従って、投資をコンテンツ制作に投入して、オリジナルコンテンツの品質をあげるしかない。客数よりも値上げでリピート顧客に注力して、コンテンツ品質による差別化を図り、NETFLIXへのロイヤリティを高める戦略をとっている。この戦略を明確に打ち出したのは、コロナによる会員数の飛躍的拡大後である。仮に、会員数拡大低価格戦略をとるなら配信設備に投資する。あるいは、Appleのように高画質で戦うという選択肢もあったはずだ。それをとらなかったのは、最後の競争は、品質競争と顧客ロイヤリティの獲得にあると見切ったからだと思える。

 マイクロソフト社のOSも無料化した。GoogleがスマホでOSの無料提供をしシェアをAppleと二分し、ChromebookでPCのOS市場に参入したからである。従って、OSを無料化し、オフィスで差別化する戦略に変更した。これもスイッチングコストでは、ライバル商品が参入すると変更されてしまうことは眼に見えているからだ。

 さらに、生成AIが市場導入され、検索サービスを独占し、ネット広告市場を寡占化してきてGoogleに脅威を与えることになった。

 OpenAI社のChat-GPTは、検索と同様の機能を持ち、「検索ニーズ」を「相談ニーズ」に置き換える可能性を持っている。そうなれば、検索市場の独占性によってネット広告市場で収益をあげているビジネスモデルは揺らぐことになる。ユーザーに「検索はGoogle」というロイヤリティはない。

 Googleは、生成AI市場で、「Bard」で参入し、「Gemini」で追い上げるが、シェアを奪うまでには至っていない。生成AI市場では、ネットワーク外部性は働かない。みんながChat-GPTだから私も、ということはない。Googleの独占性が崩れるのは、検索シェアが相談シェアに奪われることである。検索シェアが低ければネット広告の効果は低下する。

 ここでもネットワーク外部性による数の優位性は崩れ、AIの品質競争になった。マイクロソフト社は、オフィスにAIを組み込んだ包括サービスで優位に立とうとしている。Googleは、検索と相談の折り合いをどうつけるかが明確ではない。

 2024年は、GAFAMのビジネスモデルが崩壊し、新しくAIを中心にした品質競争と顧客ロイヤリティを奪う競争の時代の始まりになりそうだ。

 「消費社会白書2024」で明らかにしたことは、生成AIは、普及率15%程度の普及でその限界を突破するのは難しいということだ。学習データが古く、リアルな検索ニーズに対応できないからだ。従って、生成AIも、検索ニーズを組み込んでいる。従って、24年度は、企業向け、業界業種向けなどに特化したAIが普及し、AIの利用層を広げ、個人の検索ニーズを相談ニーズへの変えていくことが予想される。

 GAFAM支配の終焉と専用AI主導の品質競争の時代へと動き出した。これは、ユーザーとしては喜ぶべきことだ。

22

マルクス死せずーマルクスの人間自然史観

 近年、マルクスが話題に上っている。日本の階層意識が高まり、資本主義の限界が知られるようになったからだ。日本のマルクス研究の土壌ではない欧米での研究者が注目され、マルクスの「物質代謝」論や自然史観が、成長資本主義ではない、ドイツ風のグリーンな自然共生経済が語られたりしている。

 日本の明治以降の学問は輸入学問として、東京大学などの高額なお雇い外国人を輸入代替すべく発展してきた。従って、研究者の「舶来信仰」は強く残存している。特に、経済学のジャンルでは、アメリカの大学の博士号を取得していなければ「一人前」と見なされず、日本の大学院研究はアメリカ留学の予備校化している。注目されている経済領域の若手研究者はほとんどがこの付和雷同の流れを利用して収入と地位を築いている。ノーベル経済学賞を日本が取れないのは、もっとも影響力のあるアメリカ経済学会で認められる人がいないだけだ。

 ところが日本のマルクス経済学はそうではなかった。マルクス研究は、どの国でも、共産党系正統派の影響が大きい。しかし、自由で独創的な研究は、非共産党系左翼の立場をとる研究者によってリードされている。

 日本では、宇野弘蔵[※22-01]はじめ戦前から独自の発展を遂げ、考証レベルでも、マルクスとエンゲルス[※22-02]のミミズのはったような手記を区別し、読解できる研究者が何人もいた。廣松渉[※22-03]のマルクスとエンゲルスの思想の分別によるエンゲルス主導説や佐藤金三郎[※22-04]の資本論のプラン問題の研究などが世界最高の水準に達し、MEGA版の先行研究も日本がもっともリードし、マルクーゼ、アドルノ[※22-05]やホルクハイマー[※22-06]を輩出したフランクフルト研究所を凌ぐ勢いだった。大学のポスト争いも熾烈を極め、東大、東北大は宇野派、京大は正統派といわれた。私学では法政は宇野派、慶応は正統派などと言われた。これらは妄想。

 この勢いが途絶えたのは、1989年のベルリンの壁の崩壊である。社会主義ソ連の崩壊とバブル経済の崩壊が、日本のマルクス研究を一変させた。学生が集まらなくなったのである。代わって、ドイツや北欧では、緑の党などの自然環境派が勢力を拡大していった。この流れとともに、マルクスが再び見直され始めた。

 こうした視点でみると、最近注目されているマルクスの人間と自然との関係を「物質代謝」と捉え、地球史自然史の視点で分析していることは、すでに、日本では1970年代に中期マルクス研究の成果として発掘されていた。(コメンタール「経済学批判要綱」(下) 講座マルクス経済学7)。また、吉本隆明の1966年に出版された「カール・マルクス」でも指摘されていたことである。

 少々、マルクス研究を知る者にとって、本場ドイツから逆輸入された日本人の若手マルクス研究に、また、舶来学問への逆戻りかと嘆きたくなる。日本の非共産党系左翼のマルクス研究にもう一度注目して欲しいものだ。

23

米中対立から米欧対立の時代へ向かうのか

 2024年の世界の地政学的変化で予測可能なもっとも大きな要因は、アメリカ大統領選になることは言うまでもない。共和党のトランプ再選である。バイデンの外交安全保証政策は、圧倒的な経済力と軍事力で築いたアメリカ基軸の秩序を、パワーが減衰するなかで、いかにコストを下げて、基軸通貨の地位などのメリットを最大限に生かすかにあった。アメリカの挑戦者である中国を封じ込め、ロシアなどの「ならず者国家[※23-01]」の暴発を防ぐことであった。他方で、日本などの同盟国との協力関係を維持し、パワーバランスを維持するコストを分担させることであった。結果として、ウクライナ侵略に対抗し、同盟国と共同で軍事支援や経済封鎖で封じ込め、中国を少なくとも中立化させる政策をとり、半導体などでは中国経済との経済チェーンを分断してきた。こうしたバイデン政権下では、日本は、アメリカと完全に歩調を合わせてきた。結果として、中国を製造拠点として位置づけるグローバルチェーンは脱中国化し、新たなグローバルチェーンを築くことを余儀なくされた。

 この政策がトランプ政権でひっくり返ると、アメリカの国際的なリーダーシップへの信頼は揺らぎ、世界秩序は再び大きく変わっていくことになる。しかし、アメリカにとって変わるスーパーパワーは存在しない。中国は長期の経済低迷に陥り、急速に進む高齢化は中国のパワーを減衰させる方向に動く。そうすると、世界秩序は極めて不安定なものとなる。国連も安全保障理事国間が対立すれば拒否権によって機能しない。

 2024年の国際秩序は、不安定と不確実性が高まる時代になることは誰でも予測できる。この状態は、企業経営にとっては、もっとも都合が悪く、投資も撤退もできない非決定の情況を迎えることになる。経営者の直観が試される時代である。経営に地政学的知識が要求されることになってきた。世界の「力の均衡(パワーバランス)」をどう捉えるか。学べる教訓は歴史にしかない。歴史的教訓から生き抜く知恵を学ぶには、日本人があまり知らないナポレオン戦争を中心とするヨーロッパ戦争の時代が歴史的類推としては興味深い。(マイケル・ハワード[※23-02]「ヨーロッパ史における戦争」)

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近代の終焉か、近代の超克か

 現代日本が問われている本質的な課題は、「近代」である。日本史を振り返れば、現代日本と陸続きなのは、明治である。明治は、時代であるというよりも、「明治国家」であると司馬遼太郎[※24-01]は捉えている(「明治」という国家)。凜として立つ明治国家は、西欧列強の植民地化を退け、日清日露戦争に勝利して、アジアで唯一の列強の地位を獲得した。しかし、日露戦争の勝利(和解)で「思い上がった」日本は、大正昭和には、軍国主義国家へと変貌し、最終的には無謀な中国侵略とアメリカとの戦争に至り、多くの犠牲者をだすことになった、という史観である。

 現在、問われているのは、この国民作家の史観である。そして、明治以降、日本が進めてきた「近代化」である。政治における民主化、社会における自由化、経済における市場化という三つが近代化の内実である。そして、近代を生み出したヨーロッパ化、市民社会化の総括である。司馬史観では、30-40代の薩摩の西郷や大久保などの政治リーダーは、「青写真」もなく、近代化を進めた。大久保は、維新後の訪英でイギリスの車窓から「日本は30年で追いつける」と豪語したという逸話が残っている。

 その約160年をかけて、日本は近代化を進めてきた。これを疑った時期は、戦前にあった。「近代の超克」という捉え方である。人種差別のない大東亜共栄圏の構築の哲学的根拠である。人種差別や植民地化などで行き詰まった西洋の近代化に対して、19世紀に日本が世界史に登場し、これからはアジアの盟主日本が西洋近代を超克するという発想である。

 この観点からみると、近代の超克は、アメリカの軍事パワーに敗れ、敗北した。しかし、平等理念は正統であり、パワーを回復して新たな近代の超克を目指すべきだ、ということになる。日本は、生き残るために「西洋芸術、東洋道徳」の戦術で近代化を西洋よりもうまく達成した。そして、人種差別のない、平等な世界を構築するために、アメリカに挑戦したが敗れた。戦後、再び力をつけた日本は、経済パワーとソフトパワーを駆使して、再び欧米に挑戦した。それが、バブル経済であり、結果は再び敗北し、30年に亘る長期経済低迷に陥っている。21世紀に目指すべきは、理念実現のための三度目の挑戦をめざすべきだ、ということになる。廣松渉は、共に協力する相手を中国とみていた節がある。

 これには、少々、違和感がある。しかし、欧米の植民地化でもっとも自尊心を傷つけられたのは中国である。明治維新前、高杉晋作が上海を訪れ、「この橋、犬と中国人はわたるべからず」と書かれていたのに衝撃を受け、日本の植民地化の危機意識を醸成したことが知られている。

 この近代の超克という理念から見ると、政治の民主化、社会の自由化、経済の市場経済化は、政治的役割の最小化、社会の大衆化から地域社会化、市場経済の再設計というものになるはずだ。

 明治以降の近代化プロジェクトをどう総括し、ポストモダンをどうデザインするかが見えないのが現状である。新たな歴史観の上で近代の超克を描いてみると未来を遠望できる視座である。日本の理念が問われている。

 最後に、憤慨を書いて、つくづく思うことは、日暮れて道遠し。徒然草は243段からなる。通常の段なら、鎌倉の田舎武士の間で、生魚を食うという野卑なことがはやっていると嘆くなどの随筆らしくしっかり感慨がこめられている。

 これは刺身の事で、当時の醤油の主流は魚醤であったが、鎌倉では大豆醤油が普及していたようだ。容易に想像できるが、生魚に魚醤はあわない。臭みが消えるのはやはり豆醤油だ、と思われる。従って、吉田兼好はあんな生くさいものをよく食べるよ、と思ったようだ。しかし、これは専門家には確認していない。

 他方で、「栗ばかり、栗しか食べない娘がいる」などの事実報告文の段も50段を超える。奇談珍談の類いである。ここからうかがえる吉田兼好の歴史観は、歴史を支配する法則は、不確実性と不確定性であると示しているようだ。高度不確実性が支配すると予測できるのが、2024年という年である。

【注釈】

[00-01] 小林秀雄(1902-1983年)
近代の文藝批評を確立し、優れた文体で批評を芸術作品化した。「本居宣長」などの古典題材が多い。

[01-01] コストプッシュ
賃金や原材料費などのコストアップが生産性の伸びを上回ったために生ずる物価高騰。

[01-02] ディマンドプル
需要が供給を上回ったために引き起こされるインフレ。

[01-03] ベイズ推定
ベイズ統計学(ベイズの定理の考え方を使って、統計のモデルのパラメータの推定をおこなう方法)に基づく統計的な手法。マーケティングのための人工知能入門およびその周辺技術参照

[01-04] ベナール対流
フランスの物理学者アンリ・ベナールが発見した対流。
空気や水などの一部を熱するとその部分は密度が小さくなって上層に上り、他の熱せられない密度の大きい部分が下に向かって流れ、熱や液体中の物質が運ばれる現象。

[02-01] 近隣窮乏化政策
自国の通貨の相場が安くなるように為替介入を行うことで、輸出競争力や、国産品の国内での競争力を高めて、自国の経済の安定を図る政策。他国の犠牲において自国の国際収支改善をはかる政策である。

[03-01] 因果推論
原因と結果の因果関係を推論することを主眼とした統計的分析の枠組みを総称して、因果推論(または統計的因果推論)と呼ばれる。因果推論では、原因以外の要因は同じでも原因のみが異なる状況下で結果に差があれば、その差は原因が結果に影響を与えたことによるもの(「因果効果」と呼ばれる)と判断される。因果効果の具体的な測定作業では、一定数の対象者を、原因となる事象が発生しているグループ(処置群)と発生していないグループ(対照群)とにランダムに割り当てたり(ランダム化比較実験(RCT)と呼ばれている)、原因となる事象が発生する前の処置群と対照群の結果の差を用いて両群の特性の違いをコントロールする(差の差推定(DID)と呼ばれる)などの方法で原因以外の要因によって生み出される結果の違い(選択バイアスと呼ばれる)を取り除きつつ、各群に属する対象者から観察された結果の数値を測定し両群での結果の平均値の差を比較することで、因果効果の有無やその大小を評価できる。
〔参考〕E.デュフロー他、小林庸平監訳(2019)『政策評価のための因果関係の見つけ方』日本評論社

[03-02] 自然実験
「自然実験」とは、「研究者が意図的に被験者を集めたり、条件を操作したりするのではなく、実社会に自然に生じた現象の原因と結果を観察することにより、因果関係を考察したり、ある条件の有無が結果にどのように影響するかを比較したりする実験」のことを指す。自然実験では、通常は観察できない脱落変数の存在や対象の内生的選択行動の影響などにより識別が困難な問題に対し、処置の割当を決定する説明変数の変化に明確な外生性が認められるような状況変化を利用して、処置効果の推計が行われる。そうした外生的な状況変化の例として、政策措置の変更やランダム化された施行などのような政治的、経済的、社会的なイベントが用いられることが多い。
〔参考〕戒能 一成(2018)「政策評価のための「自然実験」の有効性要件と単一の「自然実験」による処置効果の分離・識別に問題を生じる場合の外部的有効性などを用いた対策手法の考察」

[03-03] 西部邁(1939~2018年)
経済研究者から社会経済分析などに踏み込み、大学を退いてからは、保守批評家としての立場を堅持した。経済研究者として成果は「ソシオエコノミクス」に集約されている。

[03-04] 実質利子弾力性
実質利子率の変化によって、対象とする経済変数(投資や消費など)の量がどの程度変化するかを表す指標。実質利子弾力性の数値が正(負)の場合、実質利子率が1%上昇したときに投資または消費の量が何%上昇(低下)するかを示すものとなる。実質利子率は、金融市場で日々定まる名目利子率から、GDPデフレーターや消費物価指数などを用いて算出されるインフレ率を引いた値として算出される。

[04-01] ミルトン・フリードマン(1912~2006年)
アメリカの経済学者。独自の貨幣観・金融政策観に基づく新貨幣数量説の体系を確立。その主張はマネタリズムとよばれた。1976年ノーベル経済学賞受賞。

[04-02] ポール・アンソニー・サミュエルソン(1915~2009年)
アメリカの経済学者。ケインズ経済学と新古典派経済学を総合する新古典派総合の創始者。近代経済学の標準的教科書《経済学》は,世界中の大学で用いられた。1970年ノーベル経済学賞。

[04-03] ジョン・ラスキン(1819~1900年)
英国ヴィクトリア朝の代表的な批評家、美術評論家。芸術を民衆の社会的な力の表現とする芸術哲学から、次第に社会問題に眼を転じ、理想主義的社会主義を唱導。

[04-04] 長幸男(1924~2007年)
日本の経済学者。東京大学卒業。多摩大学大学院教授 。「実業の思想」編集。

[04-05] 見田宗介(1937~2022年)
日本の社会学者。社会心理学、現代社会論を専門とし、現代日本の社会構造、社会意識の分析につとめる。

[04-06] 作田啓一(1922~2016年)
日本の社会学者。京都大学名誉教授。戦後の日本人と日本社会を分析・研究し、戦争責任の論理などを追究した。

[05-01] ジェイン・ジェイコブス(1916~2006年)
カナダの経済学者。都市の研究から効率的で画一的な街づくりが都市を衰退させ、多様な建築物と歩行者目線の町作りが都市を活性化させるとた。ジェイコブスは「多様性の経済」を重視した。

[06-01] 福田恆存(1912~1994年)
シェイクスピアの翻訳や劇作家として知られ、日本を代表する保守思想を築いた。旧かなづかいに拘る「日本語教室」などが一般向けとしてよく知られる。

[06-02] エドマンド・バーク(1729~1797年)
「フランス革命」をイギリスの立場から批判した。革命直後の「フランス革命の省察」がよく知られる。革命に疑義を唱える保守思想を生んだ思想家。

[06-03] ギルバート・キース・チェスタトン(1874~1936年)
「正統性とは何か」で知られるイギリスの代表的保守思想家。推理作家としても知られ、BBCの長寿ドラマ「ブラウン神父」の原作者。

[06-04] フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(1899~1992年)
計画経済を批判した経済学者。市場経済は歴史的に積み重ねられた「自生的秩序」によって成り立つ。計画で代替できるものではないとした。現代のリバータリアンの思想的支柱。

[07-01] カール.マルクス(1818~1883年)
簡単な解説は不能。資本論にみられるデモーニッシュな論理展開はマルクスの人柄を示す。世界でもっとも誤解されている思想家のひとり。

[07-02] ロバード・キング・マートン(1910~2003年)
アメリカ社会学の指導的理論家の一人であり、社会学理論と経験的調査の相互媒介を企図する「中範囲の理論」を提唱した。著書に『社会理論と社会構造』

[07-03] 中野重治(1902~1979年)
日本の小説家・詩人・評論家・政治家。東京帝国大学独文科在学中に、窪川鶴次郎、堀辰雄らと「驢馬」を創刊し、詩、評論等を発表。また、同時期プロレタリア芸術運動にかかわり、全日本無産者芸術連盟(ナップ)創立に参加。第二次大戦後は一時期参議院議員。代表作「村の家」「五勺の酒」「むらぎも」「甲乙丙丁」など。

[07-04] 花田清輝(1909~1974年)
文芸評論家。小説家。劇作家。福岡県生まれ。戦時中に書き続け、1946年に刊行した『復興期の精神』は大胆な発想と巧みなレトリックで文化再生の道を示し、戦後の言論界に衝撃を与えた。

[07-05] 野坂参三(1892~1993年)
日本の政治家。大正11年(1922)日本共産党創立時に入党。昭和6年(1931)第三インターナショナルへ派遣され、ソ連・中国などで活動。第二次大戦後に帰国し、党中央委員会議長を経て名誉議長となるが、平成4年(1992)党を除名された。

[07-06] ルイ・ボナバルトのブリュメール18日
ドイツの思想家、経済学者、革命家であるカール・マルクス(1818-1883)が書いた著作。1852年出版された。この作品は、フランスの政治家ルイ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの甥)が1851年12月2日に起こしたクーデターを分析。このクーデターは、共和政フランスを打倒し、ルイ・ボナパルトが皇帝ナポレオン3世として権力を握ることにつながった。「歴史は最初に悲劇として、次に喜劇として繰り返される」という有名な言葉で知られている。

[07-07] 吉田松陰(1830~1859年)
幕末期の思想家・教育者。長門国萩藩士杉百合之助の次男。名は矩方(のりかた)、通称寅次郎、松陰は号。長門国生れ。山鹿流兵学師範だった叔父の死後、吉田家を相続、兵学師範となる。九州・江戸に遊学。1851年(嘉永4)藩の許可なく東北行を敢行して御家人召放となる。

[07-08] プラグマティズム
1870年代から20世紀初頭にチャールズ・パース、ウィリアム・ジェームズ、ジョン・デューイらを主要な提唱者として発達したアメリカの哲学思想。工業化の急速な進展と近代科学の発展に特徴づけられた時代への哲学的対応として、真理についての固定的な観念を排し、より動的な真理の見方を求めた。

[07-09] エートス
冷静さと情熱、理性と情念、合理と非合理、といった異質な要素の何らかの結合によって生み出された行為への一定の傾向性。エートスを、人間と社会の相互規定性をとらえる戦略概念として最初に用いたのはアリストテレスであり、社会認識の基軸として再びとらえたのがM.ウェーバーである。

[07-10] 共同幻想論
1968年に刊行された吉本隆明の著作。幻想としての国家の成立を描いた国家論。原始的あるいは未開的な幻想から〈国家〉の起源となった共同の幻想までを十一の幻想領域として追及。自己幻想・対幻想・共同幻想という三つの構造的な軸で解明し、まったく新たな論理的枠組みを提言する「戦後思想の巨人」が代表作。

[07-11] 心的現象論
哲学の存立根拠を考察しなおし、感官の実際行為と観念作用を寛覚の働きにおいて徹底解明した30年以上にわたる思想的思索。幻想表出、言語表出、そして心的表出の吉本本質思想3部作の到達世界が、幻想と心的世界との架橋をなす書。

[07-12] 対幻想
吉本隆明の幻想概念のひとつ。

[08-01] グリーン一派
ドイツの環境政党である「同盟90/緑の党(Bündnis 90/Die Grünen)」。環境保護、脱原発、風力発電の推進、二酸化炭素削減などの環境政策を推進。

[08-02] 単純再生産表式 拡大再生産表式
資本の生産過程において成長を前提にしない仕組みを「単純生産表式」、資本の生産過程において資本が再投入され生産が拡大する仕組みを「拡大再生産様式」と呼ぶ。

[08-03] 弁証法
意見(定立)と反対意見(反定立)との対立と矛盾を通じて、より高い段階の認識(総合)に至る哲学的方法。その過程は正反合と要約される。本来は対話術・問答法の意味で、ソクラテス・プラトンではイデアの認識に到達する方法であった。アリストテレスは多くの人が認める前提からの推理を弁証的と呼び、学問的論証と区別した。古代末期から中世にかけて自由学芸の一つである「弁証学」は正しく議論を行うための学であり、伝統的論理学をその内容とした。カントは錯覚的な空しい推理を弁証的と呼び、弁証法を「仮象の論理」とした。シュライエルマッハーは対話的思考によって思考と存在とを動的に一致させ、主体の世界認識と神認識を深化させる根本学問として弁証法を構想した。ヘーゲルは思考活動の重要な契機として、抽象的・悟性的認識を思弁的・肯定的認識へ高めるための否定的理性の働きを弁証法と呼び、これによって全世界を理念の自己発展として認識しようと試みた。マルクス・エンゲルスは唯物論の立場からヘーゲルを摂取し、弁証法を「自然、人間社会および思考の一般的な発展法則についての科学」とした(唯物弁証法)。キルケゴールはヘーゲル的な弁証法を量的な弁証法と批判し、神と人間との質的断絶を強調しつつ、宗教的実存へと高まりゆく人間存在を質の弁証法で説明した。これはKバルトの弁証法神学に影響を与えた。ほかに西田の絶対矛盾の自己同一という弁証法、サルトルの現象学的な意識の弁証法、アドルノの否定的弁証法などがある。

[08-04] ジェレミ・ベンサム(1748~1832年)
イギリスの経験主義のひとつである功利主義。商品を効用功利の集合とみて、功利の大小で判断するのが合理的と考える。

[08-05] 空想的社会主義
マルクス・エンゲルスが自らの科学的社会主義に対して、サン=シモン・フーリエ・オーウェンらの社会主義を呼んだ名称。産業資本の未成熟な段階において既に資本主義の本質を明らかにし、未来社会の理想を説いたが、階級闘争の理論は含まなかった。ユートピア社会主義

[08-06] アンリ・ド・サン=シモン(1760~1825年)
資本主義ではない共同体原理で社会を構築できるとする思想。フランスなど社会実験を行ったが失敗に終わり、マルクスから「空想的社会主義」として評価且つ批判された。

[08-07] ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831年)
カントに連なるドイツ観念論哲学の集大成とされる。弁証論を前面拡大し、理念が現実を創出するとした。「大論理学」、「精神現象学」などで知られる。

[09-01] 農本主義
農業をもって立国の基本とし、農村をもって社会組織の基礎としようとする立場。

[09-02] ニューアカ
1980年代の日本で興った思想などの新たな潮流のこと。ニュー・アカデミズム(New Acadenism)の略。思想家の浅田彰が83年に刊行した『構造と力』(勁草書房)が15万部のベストセラーとなり、その中で提唱した「スキゾ」「パラノ」という簡便な二項対立の言葉も流行した。同年に思想家・中沢新一が刊行した『チベットのモーツァルト』(せりか書房)と共に話題となり、マスコミは旧来の学問潮流に対しこれらの学問的アプローチを「ニュー・アカデミズム」と名づけた。

[09-03] ジャック・デリダ(1930~2004年)
ポストモダン思想を代表するフランスの哲学者。差異に対する差延を提示し、脱構築を解く。

[09-04] アントニオ・ネグリ(1933~2023年)
イタリアの非正統派左翼の哲学者。世界は「帝国」によって支配され、「監視社会」へと移行している。一定のマルクス理解にもとづく現状理解を提示する。

[09-05] ミシェル・フーコー(1926~1984年)
近代思考の産物である歴史主義に対し「構造」を提示する。代表作「言葉と物」では、経済学、言語学などの諸学で、同型に思考パターンが出現したことを提示し、その枠組みを関係項で構成される構造とした。歴史は構造に包摂される可能性を提示した。

[10-01] 小林武彦(1963年~現在)
東京大学定量生命科学研究所教授(生命動態研究センター ゲノム再生研究分野)。現在、生物科学学会連合の代表も務める。生命の連続性を支えるゲノムの再生(若返り)機構を解き明かすべく日夜研究に励む。

[10-02] ジャック・モノー(1910~1976年)
1910年フランスに生まれる。1934年Paris大学助教授となる。1945年Pasteur研究所に入り、1954年以後同研究所細胞生化学室長。1957年来Paris大学教授兼任。微生物の酵素合成の遺伝的制御を研究し、1965年Jacob、Lwoffとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。

[10-03] 多田富雄(1934~2010年)
東京大学名誉教授、免疫学者。1971(昭和46)年に、免疫反応を抑制するサプレッサーT細胞を発見し、世界の免疫学界に大きな影響を与えた。野口英世記念医学賞、朝日賞、エミール・フォン・ベーリング賞など受賞多数。

[10-04] 三木成夫(1925~1987年)
東京大学医学部同解剖学教室へ入り、1957年、東京医科歯科大学解剖学教室を経て、1973年、東京芸術大学保健センターに移る。元東京芸術大学教授・医学博士。

[10-05] 利根川進(1939年~現在)
1987年、V(D)J遺伝子再構成による抗体生成の遺伝的原理の解明によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。分子生物学と免疫学にそのバックグラウンドを持つが、近年は、脳科学・神経科学にもその関心を広げ、Cre-loxPシステムを用いたノックアウトマウスの行動解析等による研究で成功を収めている。

[10-06] エルンスト・ヘッケル(1834~1919年)
ドイツの動物学者、博物学者、優生学者、哲学者、医師、教授、海洋生物学者、芸術家。何千もの新種を発見、記述し、命名し、すべての生命体を結び付ける系統図を作成し、生態学、門、系統発生、原生生物などの生物学の多くの用語を生み出した。

[10-07] フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)
ドイツの哲学者。生の哲学といわれる。ヨーロッパ文化の退廃はキリスト教の支配によるとし、新しい価値の樹立を主張。そのため、「神は死んだ」と叫び、力への意志、永劫(えいごう)回帰、超人などの思想を説く。

[10-08] 今西錦司(1902~1992年)
カゲロウの研究を通して「棲(す)みわけ理論」を提唱した生物学者。日本の霊長類学の創始者でもあり、京都大学霊長類研究所を立ち上げた人類学者としても知られる。

[12-01] アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961年)
アメリカの文体を一変させた作家。シンプル、ストレートで力強い文体はアメリカ文学の独自性を高みを示すものである。「老人と海」はよく知られる。彼を生活史からみるならば、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして、朝鮮戦争も参戦した世代であり、生涯が戦争で入り付けされている。この世代が「ロストジェネレーション」と言われる。

[15-01] 吉本隆明(1924~2012年)
日本の戦後を代表する詩人であり思想家。大戦を高校大学の時代に経験した軍国青年。戦後の民主化に疑義を抱き、新たな理論構築からスタートをきる。共同幻想論、言語にとって日とは何か、心的現象論が代表作。独自の消費社会論や吉本言語論のモデルとなったマルクスの資本論などにも詳しい。吉本読者は「吉本さん」と呼ぶのが通例。

[15-02] 形而上学
観念や意識を対象とする学問のこと

[15-03] 埴谷雄高(1909~1997年)
四畳半文学が多い日本の文学作品のなかで、戦後最大の観念論小説「死霊」の作者。左翼シンパとしても知られる。

[15-04] フォーディズム
フランスのレギュラシオン学派が用いる資本主義の歴史的概念。フォード社の生産システムを一般化したもの「低価格・高賃金」を実現するために、〔1〕生産の標準化、〔2〕流れ作業方式(コンベヤー・システム)の採用などによって、生産管理の合理化を図るシステムに由来している。

[16-01] 河合隼雄(1928~2007年)
日本にユングの精神分析を導入した精神分析家。精神分析を活用した日本人論も多く、「母性社会日本の病理」で分析された日本人の母性依存心は評価が高い。元文化庁長官。

[17-01] マイケル・E・ポーター(1947年~現在)
M.E,ポーターは産業組織論の研究者から競争戦略論の構築者、そして、地域産業クラスターの提唱者となった。産業組織論をベースにした競争戦略論は、理論的基礎が明確であり、戦略経営と経済学を綱学することとなった。ポーターの「ソフトドリンク産業」などの事例研究も優れている。

[18-01] ライドシェア
自動車の運転者とそれに相乗りする人、または相乗りする人同士を引き合わせるサービス。スマートホンのアプリやソーシャルサービスを通じて、目的地を同じくする運転者と相乗り希望者の間でやり取りがなされる。

[21-01] スイッチングコスト
スイッチング・コストとは、現在使用している商品・サービスから他の商品・サービスに切り替える際に、追加的に支払うコストのことをいいます。スイッチング・コストが大きくなると、消費者は現在よりも優れたサービスがあってもなかなか切り替えようとはせず、当該サービスに留まろうとします。

[22-01] 宇野弘蔵(1897~1977年)
戦前は労農派のマルクス経済学研究者と知られ、戦後は独自の経済原論、段階論、現状分析という方法論で知られる。原論では、流通論、生産論、総過程という資本論の再構築を図り、論理性を追求した。この業績は世界的にも先駆的であり、現代経済学者や柄谷行人などにも影響した。海外にも英訳で知られるようになったが、日本のマルクス経済学の衰退で海外紹介が難しくなっている。

[22-02] フリードリヒ・エンゲルス(1820~1895年)
マルクスの生活支援者であり、理解者でもある。エンゲルスは経営者であるが、独自の弁証法や資本論理解を持ち、ある意味でマルクスよりも先見性をもっていた。エンゲルスがマルクスの引き立て役と也、理論の一体化を強調したために、俗流化した可能性がある。

[22-03] 廣松渉(1933~1994年)
戦後日本を代表する哲学者。マルクスの考証学的研究を基礎に、マルクス理論を再発見した。主著は、「存在と意味」であるが、近代の主観客観図式を乗り越える共同主観を提示した。戦前の「近代の超克」の問題意識を引き継ぐ。

[22-04] 佐藤金三郎(1927~1989年)
「資本論」のプラン問題の研究者。マルクスの筆記を読める数少ない人物。資本論の論理性と歴史性の曖昧性を提示し、宇野経済学批判をした。プラン問題にもっとも明るいが、世界的にはあまり紹介されていない。

[22-05] テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント(1903~1969年)
「啓蒙の弁証法」の共著者。ドイツの音楽社会学者を切り開いた。ナティズムを逃れて亡命したアメリカのポップ音楽のなかにナティズムとの同質なものを抽出した。もっとも難解な考察のひとつである。

[22-06] マックス・ホルクハイマー(1895~1973年)
「啓蒙の弁証法」の共著者。ホルクハイマーの理論は、ギリシャ神話によって語られ、ドイツ思想がギリシャローマ哲学の知的伝統を引き継ぎ直結していることを示すものである。日本人にとってもっとも難解な考察である。

[23-01] ならず者国家
米元大統領ビル・クリントン氏が1994年に演説で初めて使った。(rogue state)
2024年10大リスクのひとつ。世界の現状を破壊するために国際法に違反しようとする意思を持つ。(https://www.eurasiagroup.net/issues/top-risks-2024)
「逸脱して、抑制が利かず、理屈が通らぬ、予測不能な性向をもつ」国家。(『ならず者国家アメリカ』 クライド・プレストウィッツ著 2003年講談社)

[23-02] マイケル・ハワード(1922~2019年)
地政学は、ナポレオンによって引き起こされたヨーロッパ戦争を経験としている。しかし、この戦争は日本の明治維新期にあたり、まったく知られいない。「ヨーロッパ史における戦争」はこの時代をシル上で貴重な文献である。

[24-01] 司馬遼太郎(1923~1996年)
経営者にもっとも読まれる小説は「坂の上の雲」と言われる。日本の近代国家への歩みである。司馬史観のスタートは、日清日露の勝利から始まる。利他的な日本人がなし遂げた偉大な革命である。それが、日露戦争後の日比谷焼き討ち騒動以後、利他性を失ったとする司馬史観を構築した。この史観は現代まで引き継がれている。