眼のつけどころ

復讐心は乗り越えられるか―近代とどう向き合うか

2018.10 代表 松田久一

01

「復讐の時代」の現代的課題

 前回の「眼のつけどころ」で、現代を「復讐の時代」と規定した。恣意的な選択によるドラマの質的な事例的分析によった。しかし、その実証的な根拠は別の機会に提示してみたい。余談だが、たまたま映画「オリエント急行殺人事件」の2017版をテレビ放映で観て、原作者のアガサ=クリスティのテーマが復讐であることに気づき少々驚いた。復讐は国際的な時代相なのかもしれない。

 さて、「復讐の時代」の掲載で言い残したことが2つある。それは、人間は復讐心を克服できるのかということであり、さらにビジネスのマーケティングとして、どんな意味を持つかだ。

 前者は、現代に生まれ、戦後教育を受けた世代のビジネス以前の「ひと」としての問題である。後者は、ビジネスの問題である。ここでは、前者の論点に少し触れてみたい(後者は別稿)。

02

復讐心を克服できれば人間の進化は止まる

 結論から言えば、復讐心は人間の倫理では悪であるが、それを乗り越えることはできない。

 理由は、感情が人間の自然的進化の結果であるからだ。復讐心とは、攻撃的な怒りの感情である。この感情を持つことによって、人間は猛獣などの捕食者から防衛し、生き延びることができた。つまり、復讐心は適応進化の産物であり、人間的な倫理の問題を越えている。人間は、進化の過程で、感情を獲得したことによって、現代人までの20万年ほどの進化が可能になった。約1万回の世代交代である。その自然史を、3~4世紀程度の近代的啓蒙や、戦後80年ほどの戦後教育で否定することはできない。

 現代は、拉致、無差別テロや無差別殺人が日常化している。「目黒女児虐待事件」などの報道に接すると、怒りがこみ上げてくる。このような不条理な事件は数多くある。これらの加害者をどうしても許す気にはならない。それは、適応進化した人間の生物の「類」としての社会感情の結果である。

 この自然感情を否定できないことは、日本では「死刑制度はやむを得ない」が80%を越えることも証左としてあげることができる。それは、単に無残な事件の抑止効果を期待する意味もあるが、被害者や遺族の無念さを思っての復讐心にあることも否定できないだろう。

 個人的にも、「目黒女児虐待事件」の犯人は、裁判で死刑に処すべきだ、と正直思ってしまう。「神戸児童連続殺傷事件」、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」などもそうだ。しかし、実際には両事件は、犯人は更正が期待できる未成年とみなされ、すでに釈放されているという。

 人間は、復讐は復讐をもたらし連鎖するということを知っている。それにも関わらず、進化によって獲得した感情によって、それを克服できない。結論はそれだけだ。

03

近代的価値との葛藤

 しかし、進化獲得した感情にもとづく復讐心を肯定すれば、T.ホッブズの「万人の万人に対する闘争」(「市民論」、1642年)の「自然状態」にもどるだけだ。歴史上なかった仮想的な「ジャングル・ルール」である。ここから、自然人が暴力によって生き残る権利(自然権)を放棄し、代わりに政府に暴力装置を一括委任する「契約」を結ぶという「契約国家」の幻想を生むことになる。

 この幻想の始まりが、近代国家と近代価値のはじまりだ。つまり、個々人が復讐感情を政府に委任したことから、近代は始まる。

 「自由、平等、博愛」(フランス革命の理念)の価値が尊重され、個々人は「基本的人権」を有するという物語である。これらの理念を共有し、政治における民主主義と法による統治、社会における自由化、経済における市場化が実現された国が近代国家である。この理念を理想的に実現したのが、移民国家のアメリカ合衆国である。

 日本では明治維新から始まった近代化は、独自のものであったが、敗戦によってなされた、アメリカを主体とする占領軍は、近代価値による戦後教育を徹底した。基本的人権の尊重であり、復讐の連鎖を断ち切ることが正義であり、法と秩序を守ることの大切さである。

 しかし、日本は明治の近代化から約150年、戦後73年も経ても、やはり復讐心が克服できているとは言いがたい。それは、繰り返し述べてきたように、自然としての感情を否定できないからだ。

 しかし、それだけではない。復讐心を喚起する時代的条件が揃ってきている。何よりも近代の価値を否定する動きが顕著になりつつある。

 政治における民主主義は、感情ポピュリズムに堕し、社会の自由化は「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」という私主義に堕落し、経済の市場化は数社の巨大IT企業が、世界のビッグデータを寡占し、巨大な独占的利益をあげるようになっている。これらは、近年では西部邁氏が批判してきたことだ。戦後の進歩派的知識人の理想は夢と消えたようだ。

 敷衍すれば、復讐の時代とは、近代価値の終焉を意味する。明治維新から150年、戦後73年の近代化のプロジェクトは「未完」に終わったということだ。他方で、復讐心を全面的に肯定して、江戸の時代の「仇討ち」を強制される社会には戻れないことも明らかだ。

04

復讐の時代にどこに向かうか

 復讐の時代の日本は、近代社会にどう向き合い、その社会を構成する自立的な個人として、どんな善悪感を持ち、復讐心にどう向かい合えばよいのか。ここで、欧米を基準にして単純化するなら、復讐心を捨て、死刑制度を認めない倫理に裏付けられた社会が近代社会だ。日本は、政治における民主主義、社会における自由主義、経済における市場主義が実現された社会である。しかし、死刑制度を否定するまでには至っていない。復讐心を克服できない社会である。

 100年先に進めたヨーロッパの近代社会は、自然に喚起される復讐感情を抑え込んでも、基本的人権を擁護し、死刑制度を認めない社会である。アメリカも死刑制度を認めない、あるいは執行されない州が多い。

 三つの方向が考えられる。ひとつは、あくまで未完の近代社会を完成させることだ。それには人々は復讐心を捨てねばならない。もうひとつは、近代社会の根底にあるこころを宗教によって入れかえることである。三つ目は、日本の近代社会を支える根底に、日本の伝統的な死生観を回復させる、ことである。

 つまり、現代日本は、明治時代と同じように、近代という入り口の前に立っているのと同じである。約150年を費やし、2度の還暦を経験し、円環してきたのだ。

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