眼のつけどころ

復讐心は乗り越えられるか―近代とどう向き合うか

2018.10 代表 松田久一

05

未完の近代社会を完成させる

 日本は、近代市民社会として成熟していない。従って、アジアで最初の近代国家になる方向に向かうことだ。

 近代に入って、人間の基本的人権の確立が認められるようになった。イギリスやフランスなどのヨーロッパでは、すべての支配権を所有していた王の権力(王権神授説)を、台頭する市民が制限する形で基本的人権が確立されてきた。市民が勝ち取った権利だ。

 日本では、明治以降に、天賦人権」の考え方は輸入されていたが、基本的人権が明文化されたのは、戦後の敗戦によるアメリカ主導の憲法によってである。戦前は、天皇によって、戦後は、アメリカ占領軍によって与えられた。従って、犠牲を払って獲得した権利ではない。基本的人権の問題であるパワハラやセクハラが問題となって、やっと日本人も基本的人権を意識するようになった。

 つまり、日本は自ら血を流して獲得した権利でもないし、基本的人権が明文化されるのが欧米に比べ遅かった人権後進国だから復讐心が克服できない、とも言える。再近代化をめざし、人々は啓蒙によって復讐心を捨て、すべての人々が基本的人権を尊重する社会をつくりあげるという方向である。

06

近代社会を宗教心で裏づける

 ふたつは、神の慈悲や赦しによって、復讐心を克服できるように、他国のように宗教や信仰心を持つようにすることだ。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は中東で発達した同じ神の教えに従う宗教だ。これらの宗教は、根本的には復讐を認めていない。

 「ヨブ記」(キリスト教では旧約聖書と呼ぶ)という聖書がある。ユダヤ教の聖典であり、信仰心を問う書であり、キリスト教の誕生に深い関わりを持つ。人々が生涯で出会う苦難や苦悩、そして恨みや復讐心をどう乗り切るかが、根本的な問いである。

 ここでは、「ヨブ記」のさわりだけ触れてみる。

 必要最低限の概略を説明すれば、こんな内容だ。「ウツ」の地に、ヨブという善人が暮らしている。ヨブは、まったくの善人で神への信仰心も厚い。ある時、神と悪魔が論争し、ヨブが神への厚い信仰心を持っているのは、裕福で平穏な家族を、神が与えたからで、それらを奪ってしまえば信仰心をなくすに違いないという。神はそれを否定し、神の許可の上で、悪魔がありとあらゆる不幸を、ヨブに与えるというものだ。悲惨で不条理で無残な目に遭い、財産、地位や家族、そして健康までも失う。救いようのない物語だ。しかし、最終的には、ヨブと神は和解し、平穏な生活を取り戻すというものだ。

 なぜ、ヨブは不条理で悲惨な目にあっても、信仰心を捨て、神への復讐心を抱かなかったのか。信仰心の厚さや創造主である神への畏れとも解せるが、これが信仰心を持たない私のような人間にはどこまでも謎である。しかし、神の許しを信じる人々は、復讐心を克服できる手がかりを持っていることは確かだ。ユダヤ教から分かれたキリスト教のもっとも大切な教義は、「隣人を愛せよ」である。つまり、自分を愛するように、悪人の隣人でも愛せよ、である。

 ヨーロッパやアメリカの社会の根底には、キリスト教や教会が地域に深く根ざしている。それであるが故に、アメリカでは進化論を認める人は40%程度と少数派であるが、キリスト教が近代社会の根底にあることは確かだ。

07

日本の土俗的な自然信仰を復興させる

 三つ目は、日本の生活に浸透していた大乗仏教と土俗的な自然崇拝から生まれた「一木一草悉皆成仏」(梅原猛)の思想を復興させることである。

 日本は地球の北半球にありながら、台風が来襲する「モンスーン気候帯」に属し、台風や地震が来れば、人間の計り事など一瞬にして破壊される。その災いや無念さは、善人であろうが、悪人であろうが、平等に訪れる。日本人は、神によって不条理な目に遭うヨブと同じである。この歴史的体験の積み重ねから生まれた自然への畏敬が、世代継承され、身につき、アニミズム的な多神教の自然-人間観として定着した。

 この多神教的な自然信仰に大乗仏教が結びつき、植物も動物も人間も、平等に成仏できるという「一木一草悉皆成仏」の思想が生まれた。

 大乗仏教を日本で独自に発展させた親鸞は、「善人なをもて往生す。いはんや悪人をや」と説く。善人でさえ浄土に往けるのに、悪人が往けないはずがない、という有名な教えである。普通ならこの逆だ。善人は浄土に、悪人は地獄にと思われる。親鸞は、その反対のことを言っている。

 その理由は、親鸞の弟子である唯円が親鸞の言葉として編集した「歎異抄」で応えられている。親鸞は、他人を1,000人殺そうと思ってもそう簡単できるものではない、何らかの「機縁」がなければできるものではない。しかし、その機縁は人間の計り事ではわからない。従って、誰でも、機縁さえあれば極悪人になりうる。だから、善悪とは人の計り事を越えたものであり、たとえ1,000人を殺めた極悪人でさえ、死の間際に「阿弥陀如来」の本願にすがり、「南無阿弥陀仏」と念仏し、「絶対他力」を頼めば、極楽に行けるという思想までたどり着いた。

 日本の土俗的で多神教的自然崇拝の観念と、親鸞の大乗仏教が結びつけば、生きとし生けるものは、すべて成仏できる、という「一木一草悉皆成仏」(梅原猛)の宗教観念が生まれる。

 梅原氏が、輸入学問の堆積である知識の中から、日本の思想として抽出したのは、ひとだけでなく、一本の木や草などのすべてで生きとし生けるものは成仏できるという思想だ。この思想の前では、復讐心などとるに足りないものになる。

 日本の近代社会を、欧米とは違って独自に裏づけるものは、土俗的な自然信仰である。

08

「近代以後」の選択肢

 歴史は繰り返すが、後戻りはできない。復讐心は、近代社会では救いきれない無念や不条理、それに計画的な無差別殺人などの想定外の条件のなかで、強まっている。

 「近代以後」である現代は、「近代以前」へと後戻りしているようにみえる。歴史のパラドックス(逆説)だ。近代のトンネルを通り過ぎたら、そこは「前近代」だった。最近の世界情勢をみると、まさにそうだ。

 復讐心と前近代化への揺り戻しのなかで、アジアで最初の近代社会として、日本はどう立ち向かうのか。そして、個人のこころの中に、ふつふつと湧き上がる復讐心を自らの倫理観で、どうコントロールしていくのか。明治維新を起点とする近代化から150年、社会も個人も、近代をどう捉えるかが問われている(未完)。

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