書評―知のドラマ

2007.02 代表 松田久一

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本コンテンツは、2006年末に行われた弊社社員向けの研修プログラムにおける松田の講義を要約したものです。

経営・経済




社会・政治




文学・歴史




自然科学

02

社会・政治

 続きまして、社会・政治です。皆さんがもし、インテリと呼ばれたかったら3人の人の名前を覚えておきましょう。一人目は柄谷行人さん、もう1人は見田宗介さん、最後に中西輝政さん。みなさん60代になってきておられて、まるで自分のこれまでの人生を集大成するかのような理論を発表しています。


(1)『世界共和国へ─資本=ネーション=国家を超えて』

図表
柄谷行人
『世界共和国へ─
資本=ネーション=国家を超えて』(2006)
岩波書店

 1941年生まれの柄谷行人さんの、『世界共和国へ』。柄谷さんは、日本の知識人としては無視できない存在です。MIT Pressから著書も出されています。夏目漱石の研究からスタートし、「マルクスその可能性の中心」(1978)が、吉本隆明さんに認められて、2006年まで近畿大学の教授をなさってました。もう65歳になられます。

 この本の結論は、「革命を起こせ」ですね。「もう一回社会主義革命を起こさなければならない」、これが結論です。世界共和国ということですね。徹底したカント・マルクス主義に基づいておられます。

 柄谷さんは、カントからマルクスを読み直して、もう一度世界を「リバタリアン社会主義」にもっていこうと提言しています。

 幾つかポイントがあります。まず、今までご紹介した本の章構成と明らかに違う章構成になっているということをぜひ読み取ってほしいと思います。それは何かというと、概念的展開になっているということです。概念的展開というのは、概念というのは非常に単純な表象、イメージというようなことですけれども、そういうシンプルなイメージに到達するために幾つかの次元があって、それに到達するための章構成になっているということです。ヘーゲル弁証法系の考え方でいくと、それぞれの章構成が有機的につながっている構成になってます。それがわかると思います。構成が基本的にはトリアーデになっています。

  • 第I部 交換様式
  • 第II部 世界帝国
  • 第III部 世界経済
  • 第IV部 世界共和国

 だから、「世界帝国」、「世界経済」、「世界共和国」というふうに概念が発展していく。「第II部 世界帝国」は「共同体と国家」、「貨幣と市場」、「普遍宗教」。「第III部 世界経済」は、「国家」、「産業資本主義」、「ネーション」、「アソシエーショニズム」。「第IV部 世界共和国」、というふうに展開する章構成になっております。

 何が言いたいのかといいますと、資本主義の先はないのか、ということです。我々は資本主義社会に生きている。社会主義は完全に崩壊した。そういう状況の中で、昔のインテリというのは、私の世代も含めて社会主義に理想をみていたわけです。そこでは自由で平等な社会がやってくるだろう、それが1789年のフランス革命以降の知識人の願望であり欲望であり、それが歴史を動かしていく動因であるというふうに言った人までいるわけですね。

図表

 そういう考え方もできるけれども、今問われるべきは、我々が住んでいる資本主義のその先はないのかということで、「それが、ある」というのが柄谷さんの答えなんですね。どこにあるのかというと、「リバタリアン社会主義」、つまり、社会の構造というものを考えるときに、平等に価値を置くか不平等に価値を置くか。「不平等に価値を置くやつがいるか」と思うでしょうが、これはあえて解釈すると、「機会の平等」と「結果の平等」というふうに考えたらいいと思います。

 ここでいう平等というのは「結果の平等」でないといけません。一生懸命努力した人と一生懸命努力してない人との差がそんなに開いたらいけない、という意味での平等ですね。一生懸命努力した人はもっともらっていいじゃないか、一生懸命努力しなかった人はそれなりにしかもらえなくていい。そういうのを許そうのが、柄谷さんのいう「不平等」と解釈できます。

 縦軸は国家による統制、コントロールか、それとも人間の人的な自由を求めていくかということです。

 この軸で切って、国家というのは四つに分かれると柄谷さんは言っています。ただし、この分類はチョムスキーからの引用です。

 ひとつは、サンシモン、ラサール、そして、1917年にレーニンのボルシェビキによって起こされたロシア革命。そしてそこでソ連が生まれ、東西の冷戦構造ができるわけです。その冷戦構造の一方の陣営である国家社会主義のベースにあるのは、空想的社会主義と言われているサンシモンの思想です。それから、マルクスと同時代にゴーダ綱領をつくったときのドイツ社会民主党の党首ラサール、こういう人たちが国家社会主義をロシアにつくっていった。これが政府によるコントロールと、それから結果としての平等を求めていく国家社会主義です。

 ふたつは、1848年にフランス大統領になった、ナポレオンの甥のルイ・シャルル=ナポレオン・ボナパルト、つまり後のフランス皇帝ナポレオン3世、それとプロシアのヴィルヘルム1世の時の宰相のビスマルク、──そのときの参謀が陸軍参謀がモルトケです。普仏戦争がそのとき起こりますけれども、──そういう人たちが目指した社会、国家というのが福祉国家社会主義です。

 三つめは、名誉革命、それからイギリスで起こったスミス、リカードの世界におけるリベラリズムをベースにする自由資本主義、それに「リバタリアン社会主義」を加えて、そういう四つの社会があるということです。

 歴史的にみますと、1789年にフランス革命が起こって、大体十七、八世紀ぐらいから資本主義社会というものがイギリスに誕生して、それが全世界に広がっていくわけです。そして世界においては絶対王政、封建社会が崩壊して、階級闘争の結果として資本主義社会、市民社会が形成されていく。その市民社会の権利が拡大するという形で現代社会につながってくるという系譜になっているわけです。

 これが自由資本主義といわれているものです。それに対してどちらかというと国家統制が入った、北欧なんかは、福祉国家資本主義社会に近い形になっているわけです。これから、福祉国家社会主義はもう完全に崩壊していきます。そうすると、我々の未来というのはどこにあるんだと。毎日こんな日常なのかと。この日常というのは乗り越えられないのか。革命というのはもう夢見られないのか。自由と平等、そういうものが生かされる社会というのはもう訪れないのか。我々はこのリベラリズムという資本主義的な、そういう市場原理に基づく経済社会から未来永劫に脱却することはできないのか。それがこの社会の未来と理想が失われた根本じゃないか。

 我々は今リバタリアン社会主義というのを目指すことができると。それはプルート、マルクスが国家というものを非常に甘く考えていたので、それを理論的に再構築して再認識することによって我々はカントが考えたような世界共和国というのを目指すことができるんだ、というのが柄谷さんの主張の結論です。

 柄谷さんはマルクスは正しいと言っているわけです。マルクスは正しかったんだけれども、マルクスが見落としていた、あるいは見誤ったところというのはどこにあるのかというと、マルクスは国家というものを甘く見ていたということです。

図表

 この図は「ボロメオの環」、イタリオのルネサンス期貴族のボロメオ家の家紋でもあるボロメオの環です。

 この環というのは非常に不思議な構造をしているわけです。この三つの環というのは離れないんです。離れないが、ふたつを取ってみると、結びついていないんです。ふたつの環は例えば黄色とブルーあるいは黄色と赤、赤とブルー、これはつながっていないのです。三つになるとつながっているんだけれども、ふたつになるとどの環ともつながっていない。それがボロメオの環です。

 つまり、マルクスあるいはプルードンという人たちが考え忘れてたことは何かというと、国家という環と、ネーションという環と、それから資本、つまり経済というこの三つの環は、切り離せないものとしてあるということです。つまり、国家とネーションと資本というのは三位一体であるということをマルクスは忘れていた。したがって、その認識の欠如の結果、一国の中で革命さえ起こせば国家はなくなって、世界はいずれ自由、それぞれの個人の自由が生かせて、その自由な連合としての社会を構築できると考えていたんですが、それは国家というものをあまりにも狭く考えていたんじゃないかということなのですね。

 したがって、世界共和国、つまり自由なリバタリアン社会主義と言われるものを資本主義の次の社会として我々が構想としていくためには、マルクスの欠陥を補っていく必要がある。

 それを補うことができる理屈というか理想というのはどこにあるかというと、これはカントにあるということです。今の国連の理想というのは第28代アメリカ大統領のウィルソンがつくったんですけれども、国連のもとになる考え方をつくったのは実はカントなんですね。カントのプロレゴメナと言われている永久平和国家論、永久平和論。その永久平和論がベースになっております。

 その永久平和論にたどりつく道というのは単に理想論でなくてカントが言っているのは、「戦争を通じて世界共和国は誕生する」ということです。世界共和国とは何かというと、これはホッブスに戻るんです。我々は何で人を殺してはいけないのか。人を殺してはいけないというのは仏教的な理念ではだめだということはありますが、法律的にいうとやはりホッブスの理屈が一番いいわけです。我々は第一の自然権を持つんです。第一の自然権というのは自分が自分で生きていく権利を持つということなんですね。自分が生きていくためには何をしてもいいという権利を持っているということ、これが自然権です。

 どういうことかというと、人は人を殺してもいい権利を持っているということなんです。これは忘れてはいけない。人は人を殺してもいい権利を持っている。しかしながら、そんなことでは万人に対する万人の戦いになるので大変です。そこで人間の理性というのはどうしたかというと、自分はその権利を放棄する。その放棄するかわりに、悪いことをする人から守ってくれるものをつくろうということです。それがリバイヤサン、つまり国家であるというのがホッブスの考え方なんですね。だから、人間は人間を殺す権利を持っている。これは忘れてはいけない。

 だから、防衛権というのは必ずある。殴られてそれを肯定するという思想はガンジーしか持ってないわけですね。人は、人を殺すことができる権利を認めるか、あるいは黙って殺されるしかない。そういう時、殺された方がいいんだというのが日本的な考え方にもあるわけですけれども、悪い人間になるよりはだまされた方がいい。人をだますようならだまされた方がいい、というのが日本的な心性というか根性の持ち方です。

 それとは別にやはりホッブス的な自然人権観からいきますと、自然権、自然に与えられている権利として、人間は生きるためなら人間を殺してもいい。それがいわゆる正当防衛の根拠なんです。人は生きていくためなら人を殺してもいい。それが第一の権利ですね。それを放棄する、その代わりに国家が守る。

 これと同じように、国は自分の防衛力をその世界共和国に預けてしまう。その預けてしまうことによって世界共和国をつくる。つまり、それは憲法第9条で言うところの戦争の放棄ですね。戦争を放棄することによって、世界共和国に預けてしまう、そういうものをつくろうじゃないか。その役割を果たしているのが今現実的にはアメリカです。アメリカが現実的にはその役割を果たしているわけだけれども、それを国連を通じてやって、国連を世界共和国の中心にしていこうということですね。

 現実問題として考えれば憲法9条というのを全世界に普及させてみんなが個別的自衛権を放棄して、戦争を放棄する。そうすると、世界共和国ができる。その世界共和国だけが軍隊を持っていて悪いことをしたところを世界の警察として活動していくと、そんなふうな理想を追求していく必要がある、それが理想なんじゃないか、と柄谷さんは言いたいのではないかと理解しています。

 そのことを通じてリバタリアン社会主義、つまり、自由と個人、個人の自由を大事にする社会主義を目指すことができる。そのための見取り図を歴史的に言うならば、世界共和国の実現の前段階として、「世界帝国」が誕生します。この場合の「帝国」とは、「広域国家」に近いものと理解してもいいでしょう。今日すでに、中国、インド、イスラム圏、ロシアなど近代の世界システムの周辺部にあった「世界帝国」が再登場してきています。その世界帝国が崩壊する過程の中において世界経済が完成し、そしてそれを止揚する形で世界共和国が誕生していく。その世界共和国誕生を目指す最初のランナーに日本はなれというのが柄谷さんの主張だと読みとれます。


(2)『社会学入門-人間と社会の未来』

図表
見田 宗介
『社会学入門―人間と社会の未来』(2006)
岩波書店

 見田宗介さんは、1937年生まれなのでもう東大を定年退官なさって、現在は名誉教授であり、共立女子大でも教授をされています。今69歳です。お父さんが見田石介さんという哲学者で、有名なヘーゲルの研究家でした。

 『社会学入門-人間と社会の未来』は、柄谷さんとは別の観点から、未来社会を展望していこうという本です。我々の社会の未来というのは何なのか。やはり自由資本主義ということ以外にないのか、そういうところがベースになるわけです。ここにありますように6章構成になってます。

  • 序 越境する知、社会学の門
  • 一 鏡の中の現代社会
  • 二 <魔のない世界>「近代社会」の比較社会学
  • 三 夢の時代と虚構の時代 現代日本の感覚の歴史
  • 四 愛の受容/自我の変容、現代日本の感覚変容
  • 五 二千年の黙示録、現代世界の困難と課題
  • 六 人間と社会の未来、名付けられない革命
  • 補 交響圏とルール圏

 これで終わりですが、この「交響圏とルール圏」のところで未来社会を提示するという構造になっているわけですね。

 これもおしゃれな章構成になっていますけれども、基本的には概念展開になってます。つまり、人間と未来の社会について、見田さんは「交響圏」というのをキーコンセプトにあげておられます。英語で言いますと、シンフォニシティという「交響体」、こういう社会を目指そうじゃないかと。重唱的な、重奏的な交響体を目指そうじゃないか。それが我々の資本主義から次の未来社会に向けての構想でもあったということです。

 社会というのは関係の学である。関係の学であると考えたときに、その関係のあり方、様態というのを2軸によって社会の相対をとらえることができるというのがパーンと切った切り口ですね。「社会態」と「共同態」と「意思的」と「意思以前的」というふうに分けているわけですけれども、これはやはり見田宗介さんはサルトルの影響をものすごく受けているので、フランス現象学といいますか、そういうものの影響を受けた結果が若干出ていると思われます。

 「社会態」、「共同態」というのは、社会学の大御所でテンニエスという人がいますけれども、その人の「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」ということの言い換えです。社会態というのがゲゼルシャフト、共同態というのがゲマインシャフト。何が違うのかというと、社会態というのは近代的な、人格的な関係じゃなくて利害に基づく関係性。共同態というのは血縁、地縁、つまり利害じゃないところで結ぶ人格的依存関係。お前の個性と俺の個性が一致して、そういう人格的依存関係で結ばれた社会のあり方というのがこの共同態、ゲマインシャフトです。それに対していわゆる利益をベースにしてあらゆる人間関係というのは社会態といいます。

図表

 意思的というのは、本来これドイツ語でして、多分アンジッヒということじゃなくてフィールジッヒ、つまり英語で言うとフォーユー、対峙的あるいは対他的、つまり反省した後ということです。それに対して意思以前的というのはアンジッヒ、つまり日本語では即自、即自的存在、そういう意味ですね。

 主体的にやるかそれとも与えられたものとしてあるかという軸と、それからゲマインシャフト、ゲゼルシャフトと人間関係の人格的に依存しているのかしていないのかという軸で切られています。社会の構造というのは連合体としてある。これは何かアソシエーションと呼ばれるようないろいろな社会組織がある。それに対してシリアリティー、造語ですけれど集列体という社会集団組織がある。それに対してコミュニティ、家とか村とか家族とかというそういうコミュニティがある。それに対して交響体というのは主体的かつ人格的依存関係を結んだそういう社会関係、それを交響体、シンフォニシティ。これは見田さんのキーワードになるわけですけれどもね。それぞれの自由で人格な個人同士がそれぞれの人格的依存関係を通じてそれぞれのハーモニーを奏でるようなそういうオーケストラ型の社会もありますよということですね。

 これをベースにして、我々人間というのはどこの未来にいくかという話で、結論からいうと、我々は今この集列体にいるわけですけれども、こういう集列体の世界から交響体の世界を目指していきましょうかというのがこの本の構成なんです。

 第一章では鏡の中の現代社会ということで、我々はどういう社会に生きているのかという話があって、近代社会というのはその前の社会とどう違うのかということで、柳田國男の色の話をしているわけですね。

 日本人というのは大体みんなグレーが好きだったんです。曽我簫白という日本画家で江戸時代のピカソみたいな絵を描いた人がいるんです。白黒書きの世界でものすごく圧倒的な、こんな自由な絵を江戸時代に書く人がよくいるなというぐらいにすばらしい人がいるんです。京都国立近代美術館で2年前ぐらいですか、展示されたものがありますけれども、すばらしい絵があります。

 灰色が好きだったですね。何で灰色なんだと。もっと明るい色を見ればいいと思うでしょう。ところがね、日本というのは自然の色があまりにも美しかったんですね。冬になると冬に咲く桜があるんですよ。日比谷公園に3本ある。その下で雪を見ながら日本酒を飲む。白い美しい景色ですよね。

 あるいは忠臣蔵の世界になると、赤坂南部坂、氷川神社に浅野邸の跡が残っていますが、そこで大石内蔵助と浅野内匠頭の妻あぐりが涙の別れをするわけですが、そういう冬景色の景色というのは日本人だったらだれだって思い浮かぶわけです。ただ、そこは白と黒の世界なんだけれども、あまりにも自然の色が美しいので、だからそれに畏怖心を抱くわけです。畏怖心というのは怖い、恐れ多い、神がかりである。だから、そういう神がかりの色、美しい色というのを自分の身につけることを恐れ多くてできなかった。だから、自分はその美しい色の背景になりたいと思った。それが日本人の近代以前の色感覚。その色感覚というのを柳田國男が見事に『明治大正世相史』という本の中で展開しているです。

 つまり、そういうものから解き放されて我々は赤い色を着る自由を獲得した。黄色い服を着る自由を獲得した。つまり「魔」の支配する世界、トトロの、宮崎駿のあの世界からいかに脱却できたのかというのがこの近代の大成果。

 それから、三、四となりまして、夢の時代、理想の時代、高度成長と時代論になりまして、愛が変わっていくわけですね。愛がいかに変容していくか。

 愛というのは昔からあったと思ったら大間違いで、これは大体明治時代に初めてできたんですね。北村透谷という人が「愛」という言葉をつくったわけです。その愛がどう変わっていくか。キリスト教というのはそもそも男女関係の愛というのは基本的には認めておりません。新約聖書冒頭の「マチウ書」──日本では「マタイ伝」「マタイによる福音書」という名で知られていますが──によればそれは基本的には男女の愛というのは認めていない。神と個人との関係でしか愛は認めていないので、神を愛せよとは言いますけれども、お前の嫁さんを愛せよとは絶対キリストは言わない。いかに愛が誕生し、愛が変わっていったかという話ですね。

 それから、第五章「二千年の黙示録 現在世界の困難と課題」があり、第六章は、「人間と社会の未来」。未来社会をどう変えていくか。その未来社会のポイントです。きょう紹介するのは、「人間と社会の未来」、これはどう変わっていくのか。我々の住んでいる未来。つまり、50年、40年のこの世界、つまり2050年、60年の世界というのはどうなっていくのかというのは、ひとつは皆さんがどう考えるかということで大きく変わっていくということです。それに対して見田さんとか柄谷行人さんはこういう方向でいったらどうかという提案をしているわけです。人生をかけた、命をかけた提案ということですね。そういうことを人間生きてる限りは一度ぐらいはやってみる必要があるんじゃないかと思います。

 見田さんが最後の章で言っているのは、すべての生物とかすべての社会方式とかすべてのものはこの図のようなS字曲線で説明できるということです。Sの形をしてるのでS字曲線、数学的にはロジスティック関数を使うとこんな形を描くようになるわけです。これを発見したのはアメリカのデビット・リースマンで『孤独な群衆』という本のなかで使われています。S字曲線というのが社会現象のベースにある。このS字曲線をベースに我々の人間と社会の未来を展望してみようというのが第六章のポイントなんですね。

 この章のポイントのS字曲線というのはリースマンからスタートしているわけです。人間の歴史というのはS字曲線に当てはめてみますと、あるいはS字の変形曲線というのはここの定常状態が終わった後下降するという、これが修正ロジスティック曲線というかS字曲線なんですね。

 まず、原始社会、これは定常世界、つまり何も変化がない世界。それから過渡期としての世界が文明社会としてあって、その上に近代社会が爆発した。その爆発した後の社会の現代社会はこの過渡期にあって、未来社会というのは定常期に入っていくと。我々は過渡期から定常期に入っていく局面にあるんだと。それが基本的なベースの認識なんです。

図表

 つまり、縦軸を人口として考えていくと、横軸は時間の系列ということになります。後で説明しますけれども、人類が生まれて700万年ですか、現生人類が誕生してから20万年、言語が生まれて7,500年、たったそれくらいの歴史しかたっていないわけです。この間、アフリカに15万人ぐらいの現人類が生まれて、それが世界に普及して今、数十億になってるわけです。つまり、歴史から言うと、5,000年ぐらいか、1万年か2万年ぐらいでものすごい幾何級数的に人口がふえてるわけです。これはもたない。基本的にはもたない。もたないということを考えていったときに、未来社会という定常期というものを考えていかんといかんのだよと。我々はやっと定常社会にソフトランディングできる。

 その定常社会にソフトランディングできる技術というのは何かというと、情報化と消費化だというふうに見田さんは言うわけですね。だからマーケティングというのは重要だと、マーケティングとは一言も言わないけれども、見田さんの考え方からいってもマーケティングというのはこれからの社会変化にとって最も重要な技術となると読みとれます。

 そんなふうにして未来社会が展望される中で、産業革命と情報革命というふうに過去の歴史を考えていくと、今までに五つの革命があった。0次革命、1次革命、2次革命、3次革命、4次革命。我々は4次革命の時代を迎えようとしているということなんですね。

 ひとつは、人間自然系、人間は自然に働きかけてその自然に働きかけることによって初めて食べて生きていくことができると。これは人間と自然の物質代謝の過程といいますね。こういう物質代謝の過程というのを人間自然系というわけですけれども、その物質代謝の過程の中で起こることが産業革命。つまり、人間が自然をどう利用するかという、人間と自然とのかかわりにおける関係性のあり方を変えていくというのが産業革命なんだというふうに大きくとらえる。

図表

 それから、この右側にあるのが、「人間関係」。もうひとつの変革というのは人間と人間との関係をどのように変革していくか。これを情報革命あるいはコミュニケーション革命と呼ぶならば、人間の社会というのは産業革命と情報革命によって質的にどんどん変わっていくという構造になっているんだということですね。

 0次革命というのは、人間社会が誕生したときには道具を使うという道具化と、それから言語を発明することによって人間社会が誕生したと。

 それから、1次革命というのは道具から農耕化が起こって定住することができるようになって、そして文字が誕生して文明社会が誕生した。

 第2次革命というのは産業革命、つまり工業化が起こって、文字からマスメディアが発達して近代社会が生まれた。

 そして、第3次革命、今までものづくり、つまり生産からものを考えていくという発想から、お客さんに何をつくったらいいかという人間自然系における初めて人間から自然に返っていく、自然から人間に取り入れられていくという関係を人間から自然に返していく、それがマーケティングだということです。これを消費化が起こったと見田さんは言っています。そして同時に情報革命が起こっていっている、それが現代社会の特徴であります。

図表

 我々は今定常社会に向かっていて、第4次革命が起ころうとしているけれども、それは全く名付けられない革命であるんだというのが見田さんの未来論なんですね。

 その第4次革命の結果として我々は一体どういう社会に到達しようとしているのかというと、先ほどの基本的な社会の原理からいきますと、まずゲゼルシャフトとゲマインシャフトの関係が、親密圏と社会圏というふうに変容して、こちらの「意思以前的」から自由へ軸が変換して変わっているんです。つまり、主体的にどう社会を変えていくかというのといかにして社会の変革の構造を変えていくかというふうにしてこれからの社会を純化させようとすると、より社会圏に向かうか、より親密圏に向かうか、より自由な意思に向かうか、より意思以前的なものに向かうかというふうになってくるけれども、その軸の集約性から考えていくと、これからの社会というものは交響体をベースにしたシンフォニーのような社会になっていかなければいけない。

図表

 この図の小さな丸印が個人だとすると、仲間同士が集まってこういうふうなタコつぼみたいな構造になっている。タコつぼ同士が結び合っていっているというのでは救いはないと。この社会には全く救いがないんだと。

 昔自分が子どものときによく考えたことであるというふうに見田さんは書いてますけれども、自分は長生きしたいと、死にたくない、死ぬのが怖いと、そうしたときに頼むからほかの人はどうでもええから自分だけは生きたいというふうに考えて、ふと気がついたときにうちの中で世界で一人しかいない状態はどういうことかというとこれは死んでるということと同じじゃないか。つまり、人間というのは一人で生きていくというのは全く意味のないことなんだと。それは死と同じなんだと。

 そういうふうに考えていくと、こういう孤立系のようなタコつぼ社会の構造というのは、──今どんどんこういうタコつぼ構造になっていってるけれども、──これを先ほど言いましたようにより自由の意思的な方向性と交響体をベースにしたより多様な社会体というふうにやっていくと単独者あるいは対、これは一人で生きていく、これは家族、つまり連れ合いと生きていく。それから、dというのは海外と生きていくと、そういう多層で多面的で自由な交響体をベースにした社会を目指していくべきではないかと。それが我々の目指すべき人間の社会の未来ではないかというのが見田先生の結論です。これが、東大時代これ以上偉いやつはいないんじゃないかと言われていた見田先生の人生の知識の集約点として我々に提案されているポイントです。


(3)『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』

図表
中西輝政
『日本人としてこれだけは
知っておきたいこと』(2006)
PHP新書

 最後に、京都学派の中西輝政さんですね。中西輝政さんは今は非常に注目されてまして、1947年生まれですから、ちょうど60歳前ですか。『大英帝国衰亡史』が一番よかったですね。中西先生は私が一度会って話をしてみたいなと思っている人の一人でもあります。

 この人が『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』というタイトルの本をPHPから出しました。この本も紹介しておきます。さきほどのお2人はどちらかというと左だとすると、この人はどっちかというと右。そして、安倍政権、いわゆる日本の保守革命、日本の保守革命というのが10年おくれてやってきたんですかね。安倍政権誕生というのはそういう政治的な意味合いを持っていると思います。レーガン政権とサッチャー政権というのがあって、日本には中曽根政権はできましたが、中曽根政権では保守革命はなかった。小泉さんの跡を受け継いだ安倍晋三が日本の保守革命の担い手として初めて出てきて、日本に保守軸が誕生するかどうかということにかかっているわけです。

 中西さんは阿部政権のブレーンです。安倍さんを思想的に最も支えているのはこの中西輝政さんですね。

 では、どういう章構成なのかみてみましょう。

  • 第一章 歪められた自画像
  • 第二章 あの戦争をどう見るべきか
  • 第三章 日本人にとっての天皇
  • 第四章 日本文明とは何か

 ということなんですね。

 三つ言いたいことがあるわけですね。なぜ戦争をしたのか。なぜ戦争をしたのかということですけれども、やはり日本人としては、ナショナリストの日本人としてはやはりあれはひとつの防衛戦争であったというふうに言いたいわけですね。世間からというかアメリカとか中国から、あるいは韓国から見たらそうは認めてもらえないというのはわかっておりますけれども、それはそれとしてやはり日本としては防衛戦争だったと。中国で大変な目に遭って、中国に手を突っ込んだのが最大の失敗だったということですね。

 「第三章 日本人にとっての天皇」、「第四章 日本文明とは何か」と続きます。

 ふたつめのポイントは、日本文明の独自性を忘れてはならないということです。

 中西さんのベースになってる歴史学は、トインビーを日本で紹介した山本新さんという日本の歴史学の先生です。日本の古代の、日本というのは何かというのを歴史から説明すると、山本新さんの説明によれば、日本というのは中華帝国というか中華の冊封体制に対して尊敬しつつも独自の道をめざしてきた。つまり中華というのは、チャイナというのは何かというと世界の中心という意味だから、中国は世界の中心で、その周辺にあるのが日本だから、周辺と中心の考え方ですね。世界は中華という真ん中があって、その真ん中からどんどんと広がっていく。だから、三国志の中の孔明がどんどん南蛮の方に南蛮征伐に行きますわね。あの南蛮成敗に行くというのはまさに中華文明の、中華思想の中華帝国そのものなんですけれども、そういうものが嫌だ嫌だと、自分たちは中国からたくさん勉強させてもらったけれども、嫌だと。ああいうのにはなりたくないと。漢字もそれこそ何もかも中国から勉強させてもらった。律令体制も中国から勉強させてもらった。しかしながらあんなふうになりたくない、なりたくない、なりたくないというふうに思い続けた国が日本だということです。これが古代からずっと思い続けている。つまり、中国を尊敬しつつも中国にはなりたくない。

 韓国はどうか。韓国は中国以上に中国になりたいと。我々は中国人である。異常に中国人になりたがるのが韓国人。そして、日本人は中国人になりたくなかった。それが山本新さんの歴史観なんです。その歴史観をベースにしてハンチントンの文明論を見てみると、ハンチントンも中華文明に対して日本文明を認めてくれてるということが言える。そしてそれが日本の文明の独自性なんだというのが中西さんのベースになっている考え方なんですね。

 三つめのポイントは、日本人が日本というものを理解しようとするときに日本の心というものを忘れちゃならんのだというわけです。日本の心って何だというと、持ち出してくるのがラフカディオハーンです。つまり、中西さんの日本の心の理解のベースにあるのはアイルランド人であるラフカディオハーンを通じた日本の心の理解というわけです。

 岩波文庫に『心』というラフカディオハーンが書いた本があります。ラフカディオハーンは基本的にロマン主義者で、イギリスとかと西洋の文明が嫌いだったんですね。要するに近代的な社会というものがどうでも肌が合わずに日本に来て、その日本にほれこんでいって日本のカルチャーというのを掘り起こしていくんだけれども、やはりどこまでいってもあれは西洋の目なんだと思うんだけれどもね。その『心』の中に出てくるロマンというものが日本人の心なんだというのが中西さんの日本人理解です。

 それに対して圧倒的に批判するのはルース・ベネディクトの『菊と刀』です。ルース・ベネディクトは日本に一度も来たことのない人です。アメリカが日本と戦争するために日本人研究をするわけですけれども、その日本人研究の先鞭をつけた人がルース・ベネディクトで、著書が『菊と刀』です。

 この『菊と刀』を一方で厳しく批判しながら、ラフカディオハーンの心の形というのを持ち上げるわけです。ラフカディオハーンの見た日本というのは何かというと、失われた西洋ですね。だから、失われた西洋というのが日本の心だと。いわば近代に対する反逆の心というのが日本人の中にずっとあると主張しています。

 『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』、という問題提起はすばらしい。戦後60年、私たちは戦争を知らないけれども、これからずっと我々日本人はなぜあの戦争をしたのかということを考え続けてなければ、中国とか韓国とか、それからアメリカとの関係においてもやはり生きていけないんだということが明らかになったのが今年だということですね。やはり本格的に日本人があの戦争をどう評価するかというのを書かなきゃいけない。その問題提起は中西さんの鋭いところだと思います。

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