力の論理─世界の戦いの歴史に学ぶ戦略経営法
第二章 四つの戦史の遠近比較

2010.07 代表 松田久一

実務家に提案する日本的戦略思考法。

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攻勢の戦略 ― 奉天会戦

奉天会戦とは ― 二十世紀の日本とロシアの戦い

 奉天会戦とは、一九〇五年、中国の奉天(現在の遼寧省瀋陽)で、日本とロシアの間で行われた戦いである。一九〇四年に始まった日露戦争の最後の地上戦であり、二国間で戦われた戦争のなかではおよそ五六万人が動員された世界史上もっとも大規模な衝突だった。それまでのもっとも大規模な戦いは、一八七〇年にプロシアとフランスが戦ったセダンの戦いが約三二万であり、次いで、一八一五年にフランスとイギリスなどの同盟軍が戦ったワーテルローの戦いが二六万人だった。これらの戦いのおよそ二倍の軍事力の衝突だった。

 日露戦争とは、日本とロシアによって争われた北東アジアの覇権を決する戦いであり、日本にとっては「祖国防衛戦争」の性格を強く持っていた(図表2-7)。

図表2-7.戦史 奉天会戦まで
図表

 一九世紀に起きたナポレオン戦争、普仏戦争、ドイツ統一の後、二十世紀初頭になっても、ヨーロッパの国際秩序は安定しなかった。産業の発展や科学技術の進歩によって大国化しつつあったイギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパの諸国は、主に軍事力と経済力を源泉とする「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」を維持していたが、これに、帝政下のロシアと新興国アメリカが勢力を拡大しつつあった。一般に、こうした勢力均衡の失敗が第一次世界大戦へと繋がったと理解されている。そして、ヨーロッパ以外の諸地域では、これら列強の軍事力による植民地が進められていた。特に、アジアでは、清朝中国は欧米列挙によって半植民地化され、朝鮮半島も近代化が遅れていた。日本は、一八六八年の明治維新を契機に、政府によって殖産興業と富国強兵が進められ、日清戦争にも勝利し、欧米による植民地化を逃れようとしていた。だが、日本、中国、朝鮮半島やロシアなどで構成される北東アジア地域の国際秩序は混沌としている状況にあった。このような状況のなかで、ロシアは潜在成長力の大きいアジアに着目し、中国、朝鮮半島への軍事的進出を進めていた。特に、義和団事件への列国の干渉に参加したロシアは中国東北部への軍事進出を既成事実化し、既得権益化しつつあった。同時に、朝鮮半島でのプレゼンスも拡大しつつあった。こうしたロシアの進出は、日本にとっては軍事的脅威であるとともに、中国、朝鮮半島における潜在的利権を脅かすものであった。そこで、アジアにおいてロシアを牽制したいイギリスと「日英同盟」(一九〇二年)を結ぶことによって対抗しようとした。そして日本はロシアに対し、朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案も提案したが受け入れられず、一九〇四年、日本はロシアへの実質上の宣戦布告である国交断絶の通告を行う。続いてロシア、そして日本が宣戦布告する。

[2010.07 MNEXT]

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