力の論理─世界の戦いの歴史に学ぶ戦略経営法
第三章 戦いを貫く論理 ― 力の弁証法

2010.08 代表 松田久一

実務家に提案する日本的戦略思考法。

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四つの戦史の遠近比較―戦争の本質

 戦い、つまり、戦争の本質とは何か。歴史も風土も異なる遠近の四つの戦史を比較すると、共通していることは、戦いとは、目的を巡る集団間の力の衝突である、ということである。さらに、やはりC.クラウゼヴィッツの戦争の本質論を再確認できる。クラウゼヴィッツは、ナポレオンと同時代に生き、実際にナポレオンと戦った軍人である。クラウゼヴィッツの戦争の哲学は、過去の戦史とおよそ二十五回にわたるナポレオンとの戦争の経験を踏まえたものである。近年では、B.H.リデルハートやJ.キーガンなどによる批判も多いが、戦争の本質に関する洞察は生きている。

「戦争とは具体的局面に応じてその性質を変えるカメレオンのようなものであるばかりでなく、その現象全体を通して支配的な諸傾向を見るに、一種奇妙な三位一体(Dreifaltigkei, trinity)をなしているものである。この三位一体とは、一つに盲目的自然衝動と見なし得る憎悪・敵愾心といった本来的激烈性、ふたつに戦争を自由な精神活動たらしめる蓋然性・偶然性といった賭の要素、三つに戦争を完全な悟性の所産たらしめる政治的道具としての第二次的性質、以上三側面が一体化したことを言うのである。」(『戦争論』)

 つまり、クラウゼヴィッツは、戦争を暴力性、偶然性、手段性の「三位一体」のものと捉えた。

 ひとつ目の暴力性とは、戦いを担う集団、民族や国民の感情に根ざす暴力性であり、その極限的な発露によって相手の抵抗力を無力化することである。ハンニバルのローマへの恨みと、ローマのハンニバルへの恐怖心、ナポレオンの市民革命への情熱と周辺諸国の猜疑心が、戦争の暴力性を引き出したことは言うまでもない。

 ふたつ目の偶然性については、クラウゼヴィッツは、戦争の遂行における「摩擦」や「軍事的天才」の概念によって説明しようとしている。つまり、戦争はどれだけ計画的に遂行されたとしても、偶然性に支配される側面を持っている。この偶然性は、戦闘の場面ではミスや事故などのあらゆる予期せぬ「摩擦」となって現れる。そして、軍事的天才とはそうした偶然をも味方につけてしまうような能力を持つ者である。戦争の行方はどこまで行っても予測できない不確実性がつきまとっている。これは四つの戦史、カンネの戦い、アウステルリッツの戦い、奉天会戦、湾岸戦争のどれもが勝者と敗者が入れ替わる可能性を持っていたことから理解できる。

 三つ目の手段性とは、何らかの目的達成の手段として戦争があるということである。すなわち、「戦争とは他の手段をもってする政治(外交)の継続にほかならない」。国家などの集団間で国益などの排他的な利益を争う際の解決手段として戦争があり、その国益を決定するのが政治である。つまり、外交及び政治上の目的の達成手段として、外交交渉や戦争がある。さらに、戦争に勝つには、戦争を構成する一連の戦闘、なかでも決定的な戦闘で勝たねばならない。このように、目的と手段はもっとも上位の目的から下位の手段へと階層化されていく。クラウゼヴィッツが指摘したかったのは、戦争とはより上位目的の政治の手段であり、どこまでも目的手段関係を具体化できる目的合理的なものであり、理性的なものである、ということである。この点に関して戦争にはどこにも神秘性はない。四つの戦いに見られるように、戦いの目的は戦闘に勝つことではなく、戦いの目的を実現することである。従って、軍事的勝利は、政治的目的の達成、つまり、政治的勝利の必要条件であるが、十分条件ではない。つまり、勝敗に負けても政治目的は達成されることもある。湾岸戦争は、特に、砂漠の剣作戦は、完璧な軍事的勝利をもたらしたが、必ずしも政治的勝利をもたらしたとは言えない。

 そして、この暴力性、偶然性、手段性が相互に依存して一体となり全体を構成しているのが戦争だと言う。伸縮する袋のなかに自動で膨らむ風船が三つ入り、形をどんどん変えながらも、ひとつの大きな風船を形成しているようなものだ。どれかひとつの側面、例えば暴力性が圧倒するような場合もあれば、極めて冷静な手段性が前面に出る場合もある。しかし、どの戦争も三つの側面を持っている。これが戦争の本質である。

[2010.08 MNEXT]

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