力の論理─世界の戦いの歴史に学ぶ戦略経営法
第一章 敗北の構造

2010.05 代表 松田久一

実務家に提案する日本的戦略思考法。

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01

勝つために克服すべき三つの負ける要因

 勝敗によってその後の命運が左右される勝負がある。スポーツ、ビジネス、国際政治まで、戦争を含むあらゆる戦いで起こることである。

 スポーツなら夏や冬のオリンピックでメダルを取ればメダルを獲得した選手の人生が変わるだけでなく、その競技そのものがその国で隆盛する。日本のサッカーならワールドカップの予選を勝ち抜いて本戦に出場できるのかどうかは大きな戦いだ。

 ビジネスでも日本の国際競争力を支えているのは、自動車産業、情報家電産業であり、これらの最終製品を支える機械・素材・部品産業である。これらの産業が特定の様々な市場で世界のライバルに競り勝つことによって競争力は維持されている。ひとつの基幹部品の市場でも競争力を失えば産業全体の競争力を失うことになりかねない。ドイツ車が相対的に競争力を失っているのは、品質を左右する電気系統の部品に弱さがあるからである。国際政治、なかでも戦争に負ければ国家の存立そのものが失われてしまう。紀元前三世紀頃、地中海を舞台にローマと戦い、降伏寸前まで追い込んだカルタゴも存在した遺跡すらほとんど残っていない。

 今、このような命運を左右する多くの戦いで日本のチームや日本人が勝てなくなってきているという印象が強い。特に負け続きの感があるのは、スポーツではお家芸とも言える相撲や柔道、産業では世界をリードしてきた情報家電分野、国際政治では国連の常任理事国入りの失敗など、これまで日本が強い、得意、十分に能力があると思われてきた分野で勝負に負けているからである。

 どうしたら勝負に勝てるのか。勝負の主体は多岐にわたり戦いの場も多様であるが、人間の本質が試される勝負という現象に着目して戦いを考えたい。スポーツ、ビジネス、国際政治は、研究対象として見ればそれぞれ異なるが、人間によって担われる戦いという点では共通である。また、戦いの系譜を辿れば、人間による動物の狩猟に起源を持ち、人間の集団間の戦いへと発展し、宗教の影響も加味されてスポーツへと分化し、地域国家による戦争へ、そして、近代国家による戦争や世界大戦へと進化してきた。現代では、特に、一九六〇年代以降、先進国では市場競争のグローバル化に伴い、経営の領域へも戦いの論理が組み込まれ戦略経営の概念が定着した。このように、スポーツ、ビジネス、国際政治は、それぞれ異なる現象でありながら、共通の戦いの論理が貫通しているという点では共通である。

 こうした観点から見れば、日本及び日本人の異なる領域での戦いのなかに共通のパターンを見いだすことができる。特に、勝ち方よりも負け方に顕著な共通項が見られ、遺伝子とも言えるような歴史的な連続性がある。

 負ける要因は主に三つあるように思える。ひとつは、戦いの現実についてのリアルな認識の欠如であり、ふたつは、優れた戦略を創出することができないことであり、最後に、勝負の行方が決まるまでに負けを受け入れてしまうことである。

 その結果、圧倒的に強かった地位が弱者に容易に覆されたり、勝てる力を十分に持っていながら勝てなかったり、千載一遇の機会があったのに勝てなかった、などの負けのパターンがあらゆるところで見られる。こうした負け方は、勝つことよりも負けることを潔く受け入れる、『万葉集』の精神から連綿と続き、戦前に一世を風靡した「敗北の美学」の伝統に繋がるものである。戦う前に負けることを宿命として受け入れ、勝ち負けという小さな功利的な次元を超えて美という崇高な価値の高みに抜け出ようとする心性である。

02

国際競争力を失うお家芸の情報家電産業

 ビジネス競争におけるリアルな認識の欠如、戦略づくりの拙さ、潔い負けの受け入れ、その結果としての雇用喪失という典型事例は、現代の日本のお家芸と思われてきた情報家電産業に見られる。一九八〇年代、日本の情報家電産業は世界市場を席巻し、半導体、ビデオ、電子レンジやカラーテレビの市場では圧倒的な強さを誇っていた。日米貿易摩擦の主役も、半導体などの情報家電と自動車だった。それから約三〇年後の現在、主要な情報家電製品で世界市場のシェアトップを握っている日本企業はほとんどない。液晶テレビに押され気味のプラズマテレビ、海外ではあまり普及しないDVDハードディスクレコーダーやブルーレイディスクプレイヤーなどしかない。ほとんどの製品が韓国や中国のメーカーによってトップの地位を奪われている。特に、様々な先端技術部品と高密度実装技術を必要とする携帯電話の市場や次世代の携帯端末の分野では、部品の領域では圧倒的な強さを持ちながら、最終製品でのシェアはほとんどない。従って、一台当たりの生産コストは、サムスンやLGなどの韓国企業のおよそ十倍以上にならざるを得なくなっている。さらに、現在の先端技術分野だけでなく、将来の次世代通信技術や有機ELディスプレイの分野でも日本企業は優位性を持っているとは言えず、寧ろ、後塵を拝している情況である。

 どうしてこのような事態になったのだろうか。その答えは、一九九七年の韓国の通貨・経済危機を教訓として生まれた産業のニューディール政策によって、韓国にサムスンやLGという巨大な独占企業が出現し、日本企業から学んだものづくりによる品質と低価格で、日本企業よりも早くアメリカやヨーロッパなどの海外市場を深耕していったからである。人口一億二千万人の市場に約十社のライバルが激しい品質と価格競争を繰り広げているのが日本の国内市場である。日本企業は、まず、国内で勝って、世界に出ようとする。まるで、国体に勝ってオリンピックに出場するようなものである。韓国企業は、政府の政策によって、人口約五千万人の国内では容易に独占的地位を獲得できる。だが、世界市場で量的優位を築くためにはアメリカやヨーロッパなどの市場に積極的に出ていかざるを得ない。サムスンやLGは、競争が激しく、収益のあげにくい日本市場は避け、最初から世界市場を目指している。従って、日本企業が国体で勝って世界を目指し始めた頃には彼らはすでに世界のシェアトップの地位にある。

 携帯電話市場では、技術的には先端を走りながらキャリア通信サービス会社主導の日本独自のプラットフォームにこだわりすぎて世界市場から孤立してしまった。半導体のメモリー市場では、韓国企業が「選択と集中」で飛躍する時期と、日本企業の「失われた十年」と言われた一九九〇年代が重なり、半導体製造装置では日本企業が圧倒的なシェアを握りながら、投資競争で差をつけられ、微細加工技術とコストの両面で追いつけなくなった。

 サムスンやLGは、日本企業と同じように日本の中小企業のものづくりの強みを自社の強みに組み込むことができる。自国に部品メーカーが育っていない分、日本企業以上に日本の部品メーカーについて詳しく付き合いも長い。製造原価に関わる人件費も相対的に安く、日本企業よりも高収益でグローバルに資金調達しやすい。さらに、コンセンサスによって動く日本企業とは違い、トップダウンの意思決定によってよりスピーディに決断することができる。

 このように日本企業は負けるべくして負けたのである。日本企業は国内市場と国内ライバルしか見ていなかった。サムスンやLGは世界市場と日本及び世界のライバルを見て競争した。それがこの十年の違いである。日本のライバル企業は、キャッチアップされ追い抜かれたサムスンを、自戒をこめて「ブルドーザー」と呼ぶ。世界の未開拓市場を自力で開拓し、ヒト・モノ・カネの集中によってライバルからシェアを力尽くで奪っていくからである。ここにはライバルとしての見方はない。

03

勝敗にこだわることの意味

 人間の行為を評価する場合様々な評価軸が利用される。勝敗、成否、賢愚、善悪、美醜などである。勝敗とは、行為の結果とは関わりのない単なる勝ち負けである。成否とは、行為の目的に照らしてみて結果が成功か失敗かである。賢愚とは、行為と結果を分析した総合的な功罪の判断である。善悪とは、善い悪いという価値判断である。美醜とは、善悪、真偽と並ぶ美しいか醜いかの価値判断である。これらの判断軸のなかで、成否、賢愚、善悪、美醜は合理性という観点から見れば同じであり、成否と賢愚は目的合理的であり、善悪と美醜は価値合理的であるという違いがある。どれが優れた判断軸であるかの判断は価値相対化の時代には難しいが、行為の結果を踏まえず勝敗を判断軸に据えることはもっとも愚かな判断のように思える。

 つまり、戦いで勝つこと自体は目的ではない。従って、勝敗だけにこだわることは賢明なことではない。寧ろ、愚かなことである。目的を達成するために一連の戦いがあり、勝負に勝つことは目的を達成するためのひとつの目標に過ぎないからだ。目的を達成する一連の戦いのなかで敢えてある戦いで負けることさえあり得る。また、スポーツのように、勝負そのものが楽しめれば、勝負の過程自体が目的であり勝敗は二の次になることもあり得る。

 しかし、ひとつの勝負が最終的な目的達成に決定的な影響を与えることが多いのも事実だ。勝負に負ければ、戦いの本来の目的への道は遠ざかってしまう。特に、戦争やテロとの戦いを含む国際政治の一局面の戦いで負ければ、日本及び日本人の安全さえ脅かされる。一国の独立を賭けた日露戦争の日本海海戦のように「皇国の興廃この一戦にあり」と言える戦いがあった。最近では、国連改革の一環として、日本が常任理事国入りすれば、北朝鮮による拉致問題も異なったアプローチを開くことができたはずだ。同じように経済の分野でも、半導体などの市場で日本企業が市場競争に負けシェアを奪われれば、日本の産業の国際競争力は低下し、放置すれば一般の人々の所得と雇用が失われることになる。

 勝負に勝つことは目的ではない。しかし、勝たねばならない決定的な局面がある。その勝たねばならない時に、情況の客観的な認識を欠き、戦い方も考えずに、負けても仕方がないと思って戦いに臨んでいるのが昨今の日本及び日本人の戦いの情況である。従って、負けるべくして負けていると言わざるを得ない。そして、現実に様々な戦いの場で敗北を喫し、結果として、戦いの指導者や戦略立案者だけではなく、国民、被雇用者やスポーツのサポーターが、安全性、所得、雇用、観戦を楽しむ機会を失うという辛酸を嘗めることになっている。ここでは、高い意識を持って敢えて勝負にこだわって日本と日本人が人間的な戦いの場でどうしたら勝てるのかの答えを出したい。

04

力の論理についての無知

 戦いに勝つには現実を冷静に知る必要があることは言うまでもない。しかし、戦いの情況認識に関して、定まった科学的な方法がある訳ではない。また、客観的な見方よりも主観的な見方が価値を持つことが多いのも事実である。

 米大リーグ、マリナーズのイチローは、ふたつの野球ボールを見比べて重さ(重力)の違いを識別し、重さに応じて投げ方と力を変えるそうである。頭で考えればボールの重さに違いがある訳はないが、現実には球場の芝などで湿気を含むと少し重くなる。ここまで情況を精確に認識している野球選手はほとんどいないに違いない。従って、イチローの独自の情況認識が他の選手にはできない天才的な返球の巧さを生み出していると言える。

 戦いに勝つには、主観的でも客観的でもない、イチローのような、戦いに必要なリアルな認識が必要であり、それを行動に結びつけられることが必要である。

 戦いの歴史のなかで多くの戦略主体が採用してきた情況認識の方法は「力」(パワー)を実体とみなし現実を認識する、ということである。国家が誕生し、少数の人間が他の人間とその意思に反して行動させてきた歴史が、十七世紀のニュートン力学の発展を背景にして、支配する人間がなんらかの特別な「力」を保有するというモデルと結びついたとき、権力(パワー)という概念が誕生したようである。このような国内政治における権力の概念が国際関係に発展したものが、国際政治における「勢力均衡」(バランス・オブ・パワー)の概念である。戦争は言うまでもなく、軍事力と軍事力の衝突である。ビジネスにも、独占禁止法で定義される「市場支配力」の概念がある。因みに、英語の「パワー」という言葉は様々に翻訳される。なかでも代表的な訳は、「力」、「権力」、「勢力」の三つである。

 スポーツでは「体力」、ビジネスでは「市場支配力」、国際政治では「勢力」や「軍事力」と呼ばれる「パワー」に共通するのは、主体間の関係を力と力の関係によって認識するという前提である。このような考え方は、人類誕生から続く戦いの歴史の上に、近代科学の祖と言えるニュートン力学誕生の影響を受けて、十七世紀頃に誕生したと言われている。この見方に立てば、戦いは「力と力の衝突」である。だが、日本の敗者にはこのリアルな認識が決定的に欠如している。その結果、国際政治においては、軍事力などのパワーよりも道義や法を優先した考え方になりがちであり、ビジネスでは、ライバルとの力関係を無視した競争が繰り広げられている。

 現実の戦いについてのリアルな力の認識が生まれないのは、交戦権を放棄した平和憲法と戦後の平和教育によって、「数は力なり」といった素朴な「力の論理」が否定され、同時に、本来、別の問題であるはずの「力」にもとづく情況認識自体も否定されてしまったからである。さらには、「力の論理」を他者の経験として学べる戦争の歴史や戦史についての情報や知識が急速になくなってしまったためでもある。さらに、戦前の反動として、人々の安全を守る軍人がまったく尊敬されない文化を形成してしまったこともある。

 A.アインシュタインの相対性理論の登場によって、ニュートン力学は、「場の力学」から、より一般性の高い「質点の力学」に包摂されたが、見いだされた法則の真理は揺るぎない。同じように、戦いの技術的手段が大変革を遂げているとはいえ、スポーツ、ビジネスや国際政治の基底に「力の論理」が貫徹していることは否定し難い。それにも関わらず、日本や日本人の戦いの敗者にはこのような現実認識が薄い。

[2010.05 MNEXT]

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