日本経済がバブル崩壊後、超長期に成長しなかったのは、消費が伸びなかったからである。マクロ経済理論に従えば、成長のエンジンは大きくふたつである。消費と企業の設備投資だ。日本が成長しなかったのは、このふたつ、特に、消費がまったく伸びなかったのが主因だ。しかし、これをSNA統計などで実証分析しようとすると困難である。しかし、経済分析の枠組みを外せば、消費であることは国際比較から明らかである。
その原因は、20年世代区分という長い区分の世代交代により、バブル後世代がバブル崩壊後に大きな影響を与えたからであり、デフレ期待が支配したからである。このふたつの箍が外れたことによって、消費が成長牽引者として復活する主体的条件は整った。これに拍車をかけたのが、異次元の金融緩和の副作用である円安による輸入物価の上昇と、忘れられていた労働分配率の低下と賃金引上げである。人々の価値観は、インフレによる代替効果の長短衡量から、将来よりも現在を最適解として選ぶようになった。
「流動性の罠」にはまったと指摘された脱出口は、円安によるインフレだった。異次元の金融緩和によって、マネー供給量を増やしてもほとんど変化はなかったが、円安による輸入物価の上昇と物価上昇の波及は、デフレ期待を崩壊させ、インフレ期待へと反転させた。
高市政権の誕生によって、「手取り」拡大のための税と社会保障の受益と負担が変わり、個人収入ベースの負担率が下がれば客観的な条件も整い、あとは、価格固定を前提にしたマーケティングから価値統合へと変われば良いだけだ。
消費復活の主体的客体的条件が整えば、消費拡大の鍵は、企業のマーケティング政策である。この30年間、大手消費財メーカーは、価格変更によって、収益を拡大しようとは一切考えてこなかった、と言っても過言ではない。デフレ期待が支配する空気で、値上げをすれば、シェアを落とすに決まっているからである。他方で、商品の属性や機能を価値とみなす工学的発想が、価格競争に収斂せざるを得ないスペックマーケティングになっていた。価値とは、アダム=スミス以来の経済学的伝統では、何らかの有用性や使用価値であり、人間的な欲望を充足するものである。商品サービスの価値を、生活での役割や価値観との結びつきで発想し、価値メッセージを発する試みは極めて弱かった。
消費復活の条件が整い、市場機会として企業が売上に結びつけるためには、データサイエンスによって裏づけられた価値アプローチが必要である。
国富論にみる国富とは、価値が溢れ、生き甲斐ややり甲斐に繋がる社会のことである。
消費者は、欲望に従って価値を選択し、企業は、技術に裏づけられた価値を創造し、伝達する。そして、政府は、価値の対価を支払う収入を拡大する。この役割分担によって、日本経済が価値をもとに持続的に成長していける経路が定まった。高市政権の支持率は、80%を超え、安倍政権を上回る可能性が高い。日本経済が復活するもうひとつの条件は、共通意識を共にする空気である。もし、懸念があるとすれば、積極財政による過度な円安である。日本は、貿易に依存する国ではない。少々、円安で純輸出(輸出額-輸入額)が増えても成長寄与はあまりしない。特に、経済のサービス化が進む先進経済では、輸出するものは減り続ける。過度な円安は、過度なインフレを生み、インフレ率が収入上昇率を上回れば、「イライラ」しながらも消費支出することはできない。そうなれば消費はシュリンクし、消費者の選好軸は、長期偏重へと向かってしまう。
日本経済の第Ⅲ四半期は、消費が日本経済の牽引車になるかどうかが分岐するタイミングである。