世代論からみた日本人の涙―泣かなくなった日本人
第1回 日本人は「泣き虫」か?

2013.10 代表 松田久一

データによると、日本人は昔に比べて泣かなくなっているようである。世代が移るにつれて変わっていく感情は、今後、日本人の国民性をどのように変えていくだろうか。
世代論によるダイナミックな分析で、日本人の涙を科学する。

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 日本人はよく泣くようになったのではないか。そう思い始めたきっかけは、レストランでたまたま居合わせた30才前後の男性が、突然、「もう日本はダメだ!」と叫んで泣き出した場面に遭遇したことである。これは東日本大震災直後の出来事で、彼は福島原発の放射能漏れや再臨界事故を怖がっていたようである。一緒にいた60才前後の彼の両親は、周りの人に気を遣って苦笑いをしていたが、なんとも驚愕させられた出来事だった。

 昔、私が子供の頃は、泣いていたら「泣くな」と両親や学校の先生からよく叱られたものだ。特に、「男の子は泣くな」と躾けられた。人前で泣くことは恥であるとも教えられてきた気がする。ところが、筆者と同世代の政治家が国会で涙を流したり、高視聴率のテレビドラマでは俳優の「泣く演技」が多くの人々の涙を誘ったりしている。日本人は以前に比べ、よく泣くようになったのではないだろうか。

 しかし、約70年前、真珠湾攻撃の前年にあたる1940(昭和15)年に、柳田国男(1875-1962年)は、「人が泣くことは、近年著しく少なくなっている」のではないかという仮説を提示している。これは、「涕てい泣きゅう史談」のテーマで講演をした際の発言だが、戦争が迫っているという時局的な変化ではなく、長期的な変化として涙が減少しているのでは、と言っている。柳田は、明治初期の日本人はもっと「泣き虫」だったと考えていたようだ。

 涙(涕)を流して泣く(「涕泣」)というのは、ゴミが入った時などの反射性の涙や、眼の保護のための基礎分泌を除けば、悲しい、嬉しいなどの感情によるものである。仮に、日本人がよく泣くようになっているなら、私達は感情を抱く機会が増えているということである。逆に泣かないようになっているなら、感情が少なくなっていることを意味する。泣く理由の多くがネガティブな感情だとすれば、昔に比べて、貧困、肉体的な苦痛や病気などで苦しんで泣く機会が減り、日本人がより幸福になっている証拠のひとつなのかもしれない。

 感情や情動は、直接的には歴史に残ることはない。しかし、合理的な理性と並んで人々の行動を支配している要因である。アダム=スミスが、『諸国民の富』で経済を分析する前に、『道徳感情論』を著していたことはよく知られている。そして、「見えざる手」の市場原理の基礎には、私的利益や欲望の追求、他者への憐れみや同情という道徳感情のバランスが据えられている。泣くことの変化を分析することは、感情や情動の変化を捉えることでもある。そして、他者に対する感情がどう変わっているかは、経済や社会の基礎的な変化を知る上で重要なことである。

 日本人はよく泣くようになったのか、あるいは柳田国男の説のように泣くことが少なくなったのか。本コンテンツでは、様々なデータを元に、この疑問を明らかにしていく。

 そして、間接的な狙いとして、経済現象や行動の背景にある人々の価値意識、道徳感情や世相の変化を捉える方法論を提示したい。世の中の歴史的な変化は、少なくとも5年や10年で見なければわからないし、歴史的に検証するには、30年、50年の単位で見る必要がある。しかし、一時点の横断的なデータでも、納得合理的に吟味された「世代論」を用いれば、ある程度の変化の方向を分析できる。世代論による分析は、経済や社会現象の見方に、これまでと違った新しい視点を与えるのである。