I. 消費社会をどう読むか

1.消費トレンドを読む

世代論からみた日本人の「カネ嫌い」
― 変わる他人への信頼

第1回 マネー嫌いの世代論

2013.11 代表 松田久一

日本人のマネー感覚は、世代とともに変わってきているのではないか――嫌消費世代が台頭し始めた頃から、お金を貯めるか使うかの世代ギャップには驚かされてきた。マネー観が世代交代した背景には何があるのだろうか。

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ああ金の世

 「江戸っ子は、宵越しの銭はもたねぇ」。そう言われたほど、かつての日本人は蓄財意識が低かった。ところが、現在では、まったく反対の事態が起きている。弊社調査をみても、ほとんど金利がつかないにもかかわらず、今後、預貯金を増加させたいと答える人は多い。日本には現在、約1,400兆円の個人金融資産がある。金額こそ以前に比べると減少しているが、この個人資産の中身は、預貯金に偏重している。また、預貯金が重んじられた結果なのか、若い世代の未婚女性は、結婚相手への条件に「預貯金ができること」を挙げる人も多い。マネー観の一部である蓄財意識だが、この意識はどのように変わってきたのだろうか。そして、将来はどのようになっていくのだろうか。本稿では、ライフサイクルと世代の峻別による手法から探っていきたい。

 日本人のマネー観の原型は、尾崎紅葉(1861-1903年)の大衆小説『金色夜叉』にさかのぼる。この作品は、1950年までに24本の映画化、1990年までに8回のテレビドラマ化がされるほど、多くの人々に好まれている小説である。

 「ダイヤモンドに目がくらみ」という有名な台詞が出てくるのは、主人公である貫一の許嫁のお宮が、貫一ではなく、富豪の富山のところへ嫁ぐこととなり、激怒した貫一がお宮を足蹴にするシーンである。熱海にはこのシーンを再現した銅像まである。その後、貫一は復讐のために冷酷な高利貸しになっていき、お宮は幸福には暮らせないという話に続くが、連載中に作者が亡くなったため未完のまま終わっている。この小説が大衆的にヒットした背景にあるのは、明治の市場経済化である。市場経済化が進んでいく中で、義理や人情を大切にせず、人間関係をカネで割り切ろうとする考えが生まれ、それに反発する気持ちから、金色夜叉が共感を得たのかもしれない。台詞に出てくる「ダイヤモンド」は、もちろんカネの象徴である。貫一とお宮の愛情はカネによって引き裂かれ、貫一はその恨みをバネにカネの亡者になっていくのである。

 一方、尾崎とほぼ同時代、明治・大正期に活躍した人で、添田唖蝉坊(1872-1944)という「演歌師」がいる。演歌という言葉は「演説歌」に由来しているのだが、演説歌とは、演説をする代わりに政治への不満や心情を歌にしたものである。当時、明治の自由民権運動を展開する上で、政府を批判する大衆的な心情が「演説歌」で歌われていたようだ。そして、演説歌という言葉が略されて「演歌」となっている。この演歌を歌うのが「演歌師」であり、添田は演歌師の草分け的存在である。ここで、彼の作品『ああ金の世』を紹介したい。

    ああ金の世や金の世や
    地獄の沙汰も金次第
    笑うも金よ、泣くも金
    一も二も金、三も金
    親子の仲も割くも金
    夫婦の縁を切るも金
    強欲非道とそしろうが
    我利我利亡者と罵ろが
    痛くも痒くもあるものか
    金になりさえすればよい
    人の難儀や迷惑に
    遠慮していちゃ身が立たぬ

 歌詞から見て取れるのは、市場経済化に伴う貧富の差の拡大、そして、世の中の拝金主義に対する強烈な批判である。大衆的心情を見事に代弁しており、現代でも共感されるものだろう。

 次に、日本のロック界を代表する浜田省吾(1952-)の『MONEY』を紹介したい。この曲が発表された1984年は、日本経済が第2次オイルショックを乗り越え、バブル経済に入る少し前の時期である。浜田は、この曲のなかで強烈なマネー批判をしている。歌詞の内容は、マネーを追いかけて地方を捨て町に出て行く、カネ持ちに彼女を奪われて嘆く、自らもカネの亡者となって復讐を誓う、マネーに支配される世の中を批判する、というものである。地方出身で当時20代後半だった著者には、よく理解でき、共感できる心情だ。

 実は、日本のポップやロックには、このようなマネー批判が数多く見られる。例えば、尾崎豊(1965-1992)の『17才の地図』(1984年)では、「街角では少女たちは自分を売りながら、あぶく銭のために何でもやっている」と、その後のバブル経済と「渋谷ギャルブーム」への前兆を予測するかのような歌詞がある。長渕剛(1956-)の『カラス』(1990年)では「銭だ銭だと 損か得かで日が暮れてゆく」という、バブル経済の内実とバブル崩壊の予兆させる叙情的な歌詞が出てくる。最近では、Mr.Children、桜井和寿(1970 -)作詞の『Centure of Universe』(2000年)のなかにも、「自由競争こそ資本主義社会 いつだって金が物を言う」という歌詞があり、まるで2001年の小泉政権の誕生と構造改革を予測し、先がけてマネー批判をしているようである。

 浜田省吾、尾崎豊、長渕剛、桜井和寿の歌詞の内容を比較すれば、明治の尾崎の『金色夜叉』、添田の『ああ金の世』で表現されているマネー批判と、さほど変わらないことがわかる。明治から100年以上経ても、なにも変わっていないのである。世代は異なるものの、マネー批判は継承され、同じような内容が繰り返し歌われている。

 これは、日本だけの「ガラパゴス現象」ではなく、世界の共通かもしれない。年配の洋楽ファンなら誰しもが知っていると思うが、イギリス出身のバンド、ピンク・フロイドの『Money』(1973年)という楽曲がある。欧米を中心に大ヒットした名曲なのだが、この曲のなかで、彼らもマネーを「邪悪の根源( The root of all evil )」だと歌っている。

 国境や世代の異なるアーティスト達が、繰り返して同じようなマネー批判をするのは、そこに、世代を超えて、時代を越えて、受け手である大衆層に共感される共通心情があるからである。そして、その共通心情こそが、「マネー嫌い」という心情である。