価値と欲望の充当関係とは何か-市民社会の基本原理

2024.12.23 代表取締役社長 松田久一


 構成


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  • はじめに 哲学思想のための経営マーケティング入門
    第1章 なぜ会社は利益より価値を追求するのか【2025年2月6日一般公開】
      第1節 価値と欲望の出発点
      第2節 価値概念は経済学から消えてなくなった
      第3節 産業組織論から再生した新たな価値概念
    第2章 企業の提供する価値とは何か【2025年3月19日一般公開】
      第1節 古典経済学の価値論との違い
      第2節 マーケティングの価値論の薄さ
      第3節 現代企業が提供する価値とは何か
    第3章 価値の根拠となる欲望とは【2025年5月9日一般公開】
      第1節 ヘーゲルの欲望論
      第2節 欲望とは「自己の自立性についての自己確証」
      第3節 ヘーゲル欲望論の現代的拡張
        第1項 自己意識を無意識へ拡張
        第2項 欲望の主体の拡張
        第3項 エビデンスアプローチへの拡張-脳科学【以降は2025年6月公開予定】

      第4節 見田欲望論の操作的実用性
        第1項 見田欲望論の二元表
        第2項 欲望(desire)の概念と三水準
        第3項 マズロー欲望論と見田欲望論の比較優位
        第4項 顧客満足の誤解と欲望充当
        第5項 欲望の優先判断ー相対主義の陥罠
      第5節 欲望のアポリアを解けるか
        第1項 なぜ欲望は無際限なのか
        第2項 なぜ複数の欲望同士は矛盾しているのか
        第3項 なぜ欲望を制御できないのか
        第4項 なぜ欲望は、突然、出現したり、消えたりするのか
    第4章 価値と欲望の本質的関係-価値充当の階層性
      第1節 欲望と価値を伝える言語の問題
      第2節 欲望と価値を捉えるフレーム
      第3節 価値の欲望充当
    終わりに 経営とマーケティングの基礎-価値論と欲望論
    付録 価値拡張のマーケティング実務
    主要概念と主要参考文献


はじめに

 哲学思想のための経営マーケティング入門

 企業の経営やマーケティングの実務に長く携わっていると、自然、社会や人間についての理論や洞察が浅く嫌気がさすことがある。やはり、哲学や思想が根底にある経営やマーケティングがよい、と思えてくる。しかし、そのようなものはない。他方で、哲学が現実の仕事の悩みを解決してくれるかというとまったくない。哲学思想は、大学では人気のない学問になり、専門分野化が進んで制度学問に堕してしまっている。問題意識が現実にはない。

 そこで不遜ながら実務のなかで、哲学や思想を糧にしてきた経験を生かして、哲学や思想を学んでいる人達こそ歴史を現実に動かしている経営やマーケティングを学び、実務に生かすべきだと考えた。世に、ビジネスマンに哲学を勉強しようと呼びかける提案は多い。違うだろう。哲学や思想が役に立たなくなったのは、実務の現場の世界を知らないからだろうと問い直してみた。

 現場が困っているのは、価値とは何か、そして、欲望とは何か、ということである。価値を古典経済学の議論で済ませ、現代経済学では、効用概念になっている。あるいは、選好がいえれば効用すら想定しなくていいといってみても何の役にも立たない。また、欲望を、マズローを引っ張りだしてみたところで、自社の製品サービスがどのような欲望を満たしているのかなどわかりようがない。従って、消費者に買ってもらえないという現実の問題に、現場の直観で、価値や欲望からアプローチすることが間違っていると考えるのもおかしい。

 消費者が、チョコレートを買うのに、効用としての甘さを買っているのではない。やはり、働いている自分への自尊心などの価値を求めている。そして、その価値に根拠を与えているのは、欲望であり、世知辛い世の中を、少しでも喜んで自分らしく暮らしたいという社会的承認欲望だ。生活世界では、価値が求められ、欲望によって人々は生きながらえている。これを根拠づけられない、哲学や思想が、現実を無視し、怠慢で、間違っていると考えるべきだ。アリストテレス、デカルトやフッサールを持ち出すまでもなく、哲学者は現実の問題を考え抜いた。それが哲学と呼ばれているだけだ。

 実業の思想家として、日本経済がデフレからインフレへと転換するなかで、生産者を基軸とする売り手はどんな価値を提供すべきか、その根拠である買い手の消費者の欲望はどのように捉えられるのかを実務に落とせるまで、概念を砕き、ブレイクダウンしてみた。浅学非才はいうまでもなく、読者のみなさんに多くの批判を蒙りたい。





第1章

 なぜ会社は利益より価値を追求するのか

 会社は利益をださなければ資本主義社会では生き残れない。しかし、利益の追求が存立の目的ではない。本来の存立目的が転倒し、利益追求になっているのが現代だ。

 実際、多くの会社の企業理念は、会社の社会での存立意味を表明している(図表1)。任意の事例を調べてみると、Appleのように企業理念を持たない会社もあるが、従業員のcreativeを強調し、結果としての新しい価値を提供することを間接的に表明している。多くは、何らかの提供価値や満たすべき人々の欲望を抽象的な言葉で表明し、社内外に公にしている。

 しかしなぜ、会社は理念で表明する価値にこだわるのか。そこには、会社が提供する商品サービスの差別性や品質などの価値、社員が自社で働く意味が明示され、示唆されているからだ。会社が提供する価値とそれを生み出す社員の働く意味、動機は、結果として会社の収益性に大きく関わってくる。

 会社のこだわる価値は、人々や消費者に提供する外的環境への適応と価値の源泉である内的な社員のモチベーションを引き起こすからである。

 他方で、価値の重要性を知り、価値の重要性を繰り返す議論に、価値の定義も何もないものも多い。知識が偏頗な国内外の経営コンサルタント系は、価値をわかったものとして哲学的な議論を避けて、議論する習わしだが、定義がないのだから空虚な空回りに終始している。

 ここでは、価値とは何か、価値に根拠を与える欲望とは何か、企業が提供でき、充足できる価値と欲望とは何か、について少々迂遠で基礎的な整理をし、価値論を実務に使えるようにしたい。


図表1 主要企業の企業理念
図表1 主要企業の企業理念

第1節 価値と欲望の出発点

 日本は、明治維新以降、欧米をモデルとする市民社会を約160年間も追究してきた。その到達点が現在であり、強欲と欲望が支配していることは経験的に多くの人々が理解している。しかし、欲望とは何か、欲望を充当する価値とは何か、と問われると確かな答えはない。この答えを求めようとするのが本論の目的である。

 我々が暮らしている「市民社会」とは、市民、民間企業と政府によって成り立っている。市民が主役の社会である。市民とは、狭義には、ブルジョアや資本家を意味するが、広義には、労働力を提供する労働者、資本を所有する資本家、土地を所有する地主の三階層で構成される。労働者は、賃金を得て財を消費する消費者という側面も持つ。そして、この社会で、防衛と治安をもっぱら担当するのが、市民の負託を受けた政府である。

 この社会では、仮想的にしろ「自由、平等、所有そしてベンサム [01] 」が支配する。この市民社会は、アダム・スミスとG.ヘーゲル(以降は、ヘーゲルと略)が共有する社会理念である。

 この社会が実在したかどうかは議論の余地がある [02]。市民社会に、政府が大きく介入し、市場における寡占化や独占化が進み、金融資本や巨大資本が誕生し、国家社会主義や修正資本主義にすぐに変質してしまうからである。しかし、世界の強欲が集中するアメリカ資本主義、少数の情報寡占起業が支配するグローバル帝国、破綻した福祉資本主義、監視資本主義、権威主義などより余程自由で暮らしやすい。

 従って、日本とヨーロッパが歴史的に共有する、封建社会からの移行によって成立した市民社会を保守し、日本が独自に発展させてきた従業員主権、安定雇用や長期経営を積み重ねた社会づくりが不可欠である。そしてそのためには、市民社会の本質である「欲望の体系」 [03]の基礎をなす、欲望と価値について、哲学的な議論を含めて詳らかにしてみたい。依って立つのは、「自然実在論にもとづく実用主義」の立場である。「あるものはある」という実在論に立って、社会に役立つものが真理である、という実務主義の信念体系である [04]

 出発点は19世紀ドイツのヘーゲルである。読者向きには、もっと現代の、例えば日本で人気の「マルクス・ガブリエル」はどうか、あるいは、日本語で展開している竹田青嗣氏はどうか、という推挙もあるだろう [05]

 しかし、マルクス・ガブリエルは、書評しか知らないので参考にできない。また、読む気になれない。理由は主張が「陳腐」な気がするからだが、読んでいないので妄想に過ぎない。ガブリエルは、日本に熱心な輸入業者がいるようで、「ボン大学最年少教授」という宣伝で売り込んでいる。ドイツも日本もアメリカ支配が戦後から長期に亘るので、教養主義は崩壊し、哲学などの学問はあまり人気がないのが実情だ。そのなかでの最年少教授の価値は、戦前ドイツが世界帝国を目指した時代の「ハイデッガー」や戦後の「ハーバーマス」とは大きさがまるで違う。そもそもこの世に記憶に関する認知異常者はいるが、視点転換や推理などの発想力の構築には相当時間が必要だ。

 従って、「世界は存在しない」という広告コピーはうまいが、主張は、「哲学は全体を把握できない」、つまり、世界全体を、カントやヘーゲルのようには把握できない、といっているようなので、およそ内容は検討がつく。つまり、信頼できる出発点にはならないことは読まなくても推測できる。本格的な欲望論もない。

 他方で、竹田青嗣氏の著作は読んできた。特に、「現象学入門」で展開された現象学の平易な解釈は秀逸で多くを学んだ。特に、E.フッサールの理解は難解でわかりにくい。竹田氏は、難しく展開しているところをバッサリ捨てて単純に数頁で独自の解釈を提示している。これは哲学の独習者にとって有難い。現代哲学の啓蒙には大いに役立つ。

 特に、最新刊に全2巻の「欲望論」がある。内容は、欲望論関連議論の哲学者の引用コラージュのような大著である。しかし、これも出発点にすることはできなかった。竹田氏にはヘーゲル論も多い。これも単純明確に割り切った整理である。この割り切り方が、納得できないところがある。

 例えば、同じ精神現象学でも、竹田氏と加藤尚武氏(「ヘーゲル哲学の形成と原理」)を比較するとよくわかる。ヘーゲル哲学は、日本では翻訳の難解という問題がつきまとう。独自の翻訳語の世界がある。ヘーゲルをドイツ語で読めば実は簡単だ。長谷川宏訳は翻訳語を避け、やさしく読めるが、これまでの100年以上の論争や論点がすべて捨象されてしまう。もちろん、誤訳にもとづく論争は論外だが、誤読も含めて論争内容が失われてしまう。

 何よりも、目的が、欲望の政策的実用性にあるので、到達点が違う。これは、研究医と臨床医の違いである。従って、今回は議論の出発点とはしなかった。

 欲望と価値というおよそ実務とかけ離れているようにみえるテーマを、ヘーゲルまで遡って少々込み入った整理をしてみる。本音では、このことが明らかにされなければ、経営やマーケティングの真実性は保証されないと思っているので実務の出発点である。

第2節 価値概念は経済学から消えてなくなった

 最初に、会社が提供する価値とは何か、である。

 価値は、先にみたように会社の外的環境と内的な組織とを結びつける重要なリンクである。

 企業の提供する価値は、経済学が詳らかにしているだろうと多くの人は推測するに違いない。従って、それを応用すればよいと考えるはずだ。しかし、1776年のアダム・スミスの「諸国民の富」から始まるとされる経済学のなかで、価値概念は、その後継者の理論からは次第に消えていく。

 いわゆる古典経済学(スミス、リカードなど)では、重要な役割を果たしていた価値は、「限界効用」の概念の出現によって、消えてしまう。需要曲線と供給曲線で価格が調整される市場メカニズムによる均衡に、価値は必要ない。消費者が商品サービスを選択し、価格調整によって需給が調整されればよい、という理論構成だ。

 その後の経済学は、市場メカニズムに焦点を置くA.マーシャルなどの「総合」的な考え方と「限界」を分析する解析手法の導入によって数学的形式化が進み、最終的には、厚生経済学の基本定理を証明することで理論的に完結した。さらに、集合論的な基礎づけや、論理的推論形式の精密化やゲーム理論によって応用数学体系となっている。さらに、ケインズによるマクロ経済学の登場によって、政策ツールとして整備されている。しかし、会社がこだわる価値の定義や分析はなくなった。

 現在、定着しているミクロ経済学とマクロ経済学という二分法では、どちらにも、価値概念は登場しない。新古典総合色の強い現代ではなおさらである。アメリカの大学院の標準テキストである、いわゆる「マスコレル」の「ミクロ経済学」でも価値概念は含まれない。せいぜい経済学史に残り、わずかに、ミクロ経済学の応用である産業組織論、そして、J.シュンペーターのイノベーション理論のなかに残った。

 こういう状况で、実務的な価値に必要な知識や知恵は、論点を先取りすれば、産業組織論から生まれた競争優位の戦略やシュンペーターのイノベーション理論にしか見出せなくなった。現代の経済研究者にとって、価値論という概念は必要ではなくなった。

第3節 産業組織論から再生した新たな価値概念

 経済学のミクロ的応用である産業組織論の中心課題は、産業(業界)における独占、寡占と独占的競争の不公正取引の問題である。

 その産業組織論から新たな価値論が生まれた。M.E.ポーター [06]の競争戦略や価値論である。それは、経済学から消えた価値論の復活の物語である。同時にそれは、「ハーバードビジネススク-ル」が戦略経営を世界的にリードするようになる歴史でもある。

 ポーターの価値論が生まれる背景を概略してみる。産業とは、代替的な競合商品サービスを供給する企業の集まりである。食品業界、トイレタリー業界、飲料業界など生活に必要な製品サービスごとにある。産業の数は、日本の産業分類をみても、1,473産業(日本標準産業分類細分類)ある。

 これらの産業は、海、山、そして農地などの自然から原料を採取し、素材加工し、パッケージングして、卸小売店などを通じて消費者に商品サービスを提供する。産業内では、川上から川下まで垂直的な繋がりを持つ。各産業は「垂直構造」を持っている。

 同時に、他の産業と「水平構造」を持っている。従って、産業組織論では、このような産業の垂直構造を基軸に、産業間の繋がりにも着目し、産業の魅力度や競争地位を分析する。

 この産業構造のなかで、競争関係を分析し、企業のシェアや収益性の要因を分析することを、SCP(Structure-Conduct-Performance)理論と呼ぶ。こうした理論をもとに、数多くの実証的研究がされ、多くの成果が得られている。ポーターの競争戦略論は、この業界分析の枠組みから構築されている。

 ポーターは、この客観的な業界分析を企業収益の観点から再構築し、「5フォース分析」として、企業収益性に影響を与える競争の場と捉え、ミクロ経済学で検証された同質市場における独占、寡占、そして、異質市場における独占的競争という市場の捉え方を競争の幅とし、三つの選択肢を三つの基本戦略として捉え直した。

 この理論が、現代の戦略経営の基礎となっていることは多くの研究者が認めるだろう。現在の経営コンサルティングの実務の世界では、この産業分析を基礎に、ポートフォリオ分析などの実務ツールや市場の多面性に着目した「市場プラットフォーム論」などを加えて実践されている。

 しかし、批判が多いことも確かである。ポーターの捉え方は、日本企業の強みをうまく分析できないという欠点を持っている。「トヨタには戦略がない。あるのは業務改善だ」という帰結になる。これはなかなか首肯できるものではないが、ポーター理論の登場によって、コンサルティング業界などの戦略経営のフレームは世界的に標準化された。



第2章

 企業の提供する価値とは何か

 ポーター理論を踏まえて、企業の提供する価値とは何かを明らかにしてみる。経済学の流れを汲む企業の提供価値論である。

 経済は、生活に必要な、何らかの欲望を満たす産業によって構成され、産業は代替可能な企業によって形成される。こうした企業 は、それぞれが価値を提供し、企業の価値活動に影響を与え、結びついている。これを「価値連鎖(Value Chain)」システムと呼ぶ(図表2)。


図表2 価値連鎖システム
図表2 価値連鎖システム

 それぞれの企業は、五つの主活動と四つの支援活動、九つの価値活動(Value Activities)によって価値を創造する。提供された価値は、企業の価値活動に影響を与え、付加価値やコストになる。このような価値連鎖の最後に消費者が存在し、価値を消費し、全コストの負担者となる(図表3)。


図表3 企業の価値活動
図表3 企業の価値活動

 これはミクロ経済学の価格やコストだけでは捉えられない、企業間の垂直水平構造を価値の連鎖として捉え直したものである。

 画面のディスプレイをつくる業界は、スマホを開発企画し、アセンブルするメーカーと、単にディスプレイの数量供給と価格取引だけの関係ではない。ディスプレイの品質や供給数量は、スマホメーカーの品質や製品差別化に大きな影響を与える。同時に、ディスプレイメーカーは、スマホメーカーのシェアや差別化により提供製品サービスやコストに大きな影響を受ける。

 この企業間の関係は、価値の提供と価値連鎖として捉えるしかない。企業は、機能や品質、コストを提供しているだけでなく、総合的な価値を提供している。そして、その価値が、品質やコストを含む様々な欲望を満たしている。企業がそのような価値提供ができるのは、企業の九つの活動によって創造される価値による。

 消費者が望むのは、単なる効用ではなく価値であり、その価値は様々なものを含む。そして、それらの価値を満たすものは、企業の創造する活動から生まれ、消費者の持っている欲望を満たすことによって消尽される。

第1節 古典経済学の価値論との違い

 ポーターの価値の捉え方は、アダム・スミスの捉え方と相似である。

 スミスの18世紀のイギリスにおける資本主義社会では、一産業一社のような経済が想定され、社会的分業によって産業=企業が分化し、企業内分業によって、富の源泉である商品サービスの供給が増えると想定されている。分業が富を増やす。

 そして、富の担い手である価値は、使用価値(Value in use)と交換価値(Value in exchange)として現れる。これらの価値は投下された労働によって決定される(投下労働価値説)。実際にスミスは、地主への地代、資本家の利益を含めた支配価値を想定している。しかし、価値を構成する過半は投下労働になる。

 商品は、買い手の何らかの欲望を満たす使用価値を持つことによって、交換価値を持つ。従って、投下労働を増やすことによって、価値の集積である商品が増え、富が増えることになる。ここで富国の論理が確立した。

 ポーターとスミスの価値論は源泉が同じである。しかし、同じだと同定できるかといえばできない。分析対象の企業や技術などが異なることはいうまでもないが、ポーターの価値論は、個別企業の提供価値であり、それらが垂直水平に価値の連鎖として繋がっているだけであり、社会的な配分論がない。

 この点を明確にするために、スミスの価値論を継承したマルクスの価値論と比較するとより明確になる。マルクスは、交換価値は、「抽象的人間労働」であるとする。この概念は論争も多いが、ひとつの商品を創造するのに費やされた具体的な個人の血や汗を流した時間を指すのではない。

 ポーターの価値は素朴で「唯物論」的な血と汗を流すような肉体行動を指す。しかし、マルクスは、それを、具体的有用労働と呼び、使用価値を形成するものであり、交換価値は社会的総労働時間の平均的スキルのもとで算出される、抽象化された人間労働であるとし、価値の実体とはしていない。

 つまり、スミスは支配労働価値という概念で、マルクスは抽象的人間労働という論理で社会総体の配分論を踏まえているのに、ポーターにはそのような視点はない。

 逆に、この素朴な論理によって、価値が価格へと「転形」するという難問を回避できた。これは、P.サムエルソンも論争を担った「転形」問題である。

 価値と価格の一致という課題である。価値を分析するのはいいが、現実は、価格で取引している。従って、どこかで価値は価格に「転化(transfer)」しなければならない。価値論は、貨幣を前提にしていない。価格は貨幣を前提にして生まれる。商品を価値次元で議論すれば、貨幣次元の価格との関係が問題になる。この問題は、一致しないとされ、マルクス経済学の破綻のひとつとされてきたが、置塩信雄によって、数学的な手法で一致が証明された。数少ない日本人経済学者の国際的成果である。

 ポーター理論によれば、個別企業の提供価値が価値連鎖して、社会の価値を形成していることになる。個別企業の提供価値の産業的合計が産業の提供価値になり、産業の総合計が社会的価値になる。そして、それが消費者の「支払意思額(WTP)」によって、価格に転形する。総合計は、「国民所得(GDP)」に近似することになる。

 ポーター理論を経済学に引き寄せて解釈するとこのようになる。ポーターは経済学については管見ながら言及していない。ポーターの素朴な理論が合理性を持つ根拠は、価値を買い手や消費者が合理的に判断するか、あるいは、できるか、に依存する。

 スミスは、価値は、地代、利子、労賃、利益に配分されるという社会的分配論やマルクスなら資本家、労働者、そして、地主への階級分配論を展開した。ポーターには、このような社会分配論はなく、WTPという極めて主観的な評価と「力関係」で価格が決まり、産業ごとに企業ごとに配分されるという素朴な結論に帰結する。

 このように、ポーターの価値論は、社会的分配論を欠くが、古典経済学を基礎にして繋がっている。ポーターは、転形問題、すなわち、価値と価格の一致という難問を、WTPの測定という具体的次元で回避している。ポーターは、価値は「WTPで測定される」と定義している。

 これによって、価値と価格の問題、企業価値の社会配分性の問題を回避し、市場経済に接合させ、経済学との整合性を持っている。

第2節 マーケティングの価値論の薄さ

 価値論を現実に結びつけるのは、広義のマーケティング活動である。ポーターによると、マーケティングは「販売マーケティング活動」に限定された狭義のものである。

 しかし、コトラーなどのマーケティングの専門家からみれば、ポーターの主活動全般と技術開発、調達を含む活動である。

 マーケティングの価値論は、「分厚い」ものではなく、「薄い」議論である。コトラーは、次のように述べている。

 「買い手は、最も価値があると認識する提供物を選びます。この価値は、有形および無形の利益とコストの合計です。価値はマーケティングの中心的な概念であり、主に品質、サービス、価格(QSP)の組み合わせで構成されており、これを「顧客価値の三位一体」と呼びます。価値の認識は、品質とサービスが向上することで増加し、価格が上がることで減少します。」

 ここで提示されている価値概念は、提供者からみれば、価値は利益とコストの合計であり、消費者からみれば、品質、サービスと価格が一体になったものとされている。

 転形論争にも参加したP.サムエルソンのもとで学んだコトラーは、困難な価値論を回避して、価値実体を避けて、価値を利益とコストの合計としている。さらに、価値は顧客の認知によるものとし、品種、サービスと価格の三位一体(triad)とし、顧客の価値認識の問題を回避し、うまくまとめている。

 マーケティングでは、管見ながらこれ以上の議論はない。

 しかしながら、93才のコトラーが到達した価値は、マーケティングの「コアコンセプト」であるとし、マーケティングの役割を、価値創造、価値伝達、価値配送であるとしている(図表4)。


図表4 コトラーの「コアコンセプト」
図表4 コトラーの「コアコンセプト」

 実際のマーケティングは、ポーターの販売マーケティングより広い活動であり、価値の売り手と買い手の乖離を分析し、乖離を埋める施策の事例体系をもって、具体的な施策に繋ぐことができる。

 ここでは、マーケティングの価値論と価値伝達と価値配送を包括するマーケティング機能の重要性を指摘するにとどめる。

 因みに、価値を顧客満足に目的化すれば、顧客満足のマーケティング体系ができるが、理論的にも、実践的にも、課題は多い。顧客満足アプローチの決定的な問題は、満足させるべき欲望が概念化も定義もできないからである。製品の属性や機能の評価を、ライバルよりも高くすることと満足度が高まることは一致しない。線形回帰などで分析すれば、30%ほどの寄与率しかない。

 それは、消費者が望む商品サービス価値は、商品の属性や機能だけでなく、後述する便益や価値などの「目的手段システム(means-end-system)」になっているからである。まさに、顧客は文字通り価値を望んでいる。

第3節 現代企業が提供する価値とは何か

 企業がこだわる価値、古典経済学における価値、現代経済学にはない価値、産業組織論の想定する個別企業の価値、そして、企業の価値提供を統合するマーケティング価値論をみてきた。

 ここで、現代の企業が提供している価値とは何なのかをまとめておく。

 現代企業が提供している価値について以下のように集約できる。

 第1に、買い手のなんらかの欲望を満たす有用性である。これは、使用価値と呼ばれ、資本主義創生期のスミスの分析となんら変わるものではない。変化しているとすれば、人間的欲望を満たす技術シーズの多様化であり、多くの製品によって充足されていることである。市場化された製品である商品は時代によって、欲望とシーズを結びつける製品として進化していく。

 第2に、商品が欲望の対象になり、使用価値を持つことによって、交換価値という貨幣評価にもとづく交換価値を持つ。この使用価値と交換価値は、個別企業にとっては、「独自技術」や「レント」などと深く結びついている。使用価値を大きくすることが、WTPで測定される交換価値を大きくする。しかし、社会的には、マクロ経済視点では、使用価値と交換価値は無関係である。

 第3に、価値の源泉は、九つの価値活動とその相互依存関係にある。工場設備などの固定費用は活動へコスト配分されて反映される。この考え方は、スミスの投下労働価値説に近い。

 第4に、営業利益などの収益は、売上(総販売価格)から九つの価値活動に関わる総費用を除したものになる。そして、このコストとは独立に、顧客は、WTPで測定される「認知価値」を知っているとする。認知価値とは、消費者が商品やサービスから得られるであろうと推測(なんらかの「フレーム」にもとづいて)する価値であり、貨幣尺度によって計算できるものとする。

 従って、次の計算が成立する(図表5)。

 ・顧客のプレミアム価値=認知価値-支払価格(=販売価格=売上)

 ・企業の超過利潤   =売上-費用

 但し、顧客価値>売上>費用 を満たすとき


図表5 認知価値、提供価値と費用の関係
図表5 認知価値、提供価値と費用の関係

 このことから、企業が超過利潤を得るためには、顧客の認知価値を最大化し、支払い価格を最小化することが求められる。

 第5に、消費者の認知する価値は、価値の「目的チェイン(means-end-chain)」を通じて推測される。それは、商品サービスの言語的表現であり、属性―機能次元、便益・ベネフィット次元、そして、価値次元の三つの評価とその繋がり(Radder)である。消費者は、自分の経験や情報から、自らの欲望にもとづいて三つの次元の評価をし、価値を推量する。この価値推定には、与えられた情報をもとに何らかの「フレーミング」にもとづいておこなわれることが行動経済学的知見から知られている。

 第6に、個別企業の提供する価値を産業の垂直的構造と水平的構造で合算したものが、産業が提供する価値となる。これは、産業に働く五つの力によって決定される。

 現代企業が提供できる価値とは、このような六つの要点に集約できる。

 その上で、企業が価値を提供する根拠とは何なのか。それは、生産の目的が消費であるとスミスが想定したように、価値の生産は、欲望を充足することにある。

 価値を概念的にどう捉え、実務にどう生かしていくかは準備ができた。しかし、価値の根拠とは何なのか、はまだ、明らかになっていない。



第3章

 価値の根拠となる欲望とは

 価値の根拠となるのは欲望である。それでは、欲望とは何か。価値の議論を、資本主義創生期の古典経済学から始めたので、やはり、欲望の議論も、当時の「ドイツ観念論哲学」から始める。経済学あるいは産業組織論や経営学においても、欲望論が本格的に論じられることはほとんどない。ジョルジュ・バタイユの「呪われた部分」のようなやや異端的な扱いになってしまう。それは、欲望の定式化が難しいとともに、商品が使用価値を持ち欲望の対象であればその中身は問わないからである。しかし、価値論に焦点をあてると欲望の質的内容が重要になる。資本主義の制度が問題になる時代に、現代経済は、価値提供と欲望に焦点をあてる段階にきていることは確かだ。

 欲望論の検討を、ドイツ観念論から始めるのには理由がある。

 なぜ、と訝るかたも多いと思うが、もっとも広く、基礎的に欲望論をおさえたいという狙いと、哲学的試みのなかで最後の全体を捉えようとする哲学だからである。

 「ドイツ観念論」(村岡晋一)と呼ばれる「カントーフィヒテーシェリングーヘーゲル」という19世紀前後のドイツ統一前後の哲学である。

 従って、知の領域で、世界を認識する哲学が生まれた。資本主義の成立期、近代化の時代のドイツ哲学は、経済のイギリス、政治のフランス、そして、哲学のドイツという根拠の薄い自負心を持っていたことが明らかになっている。これにならう必要はないが、「カントーフィヒテーシェリングーヘーゲル」のなした業績は現代哲学を凌ぐ成果を持つ。この哲学は、人間界だけでなく生命や物理現象を含むすべての世界を把握できる、という意気込みで体系化されているのが特徴だ。神が世界を創造した、という汎神論を哲学的に統合する、という意気込みを持っている。特に、ヘーゲル体系は、自然界の力学現象から絶対精神まで、弁証法的に展開しようとしている。その全体像は、「エンティクロペディー」で知ることができる。他方で、ヘーゲル体系は、安定したものではなく、時代の変化に合わせて、アウトラインを次々書き直し、コメントを足していくような内容で厳密な体系ではないことに留意しておくことが必要である。日本でいうなら、次に議論する、戦後の日本の社会学をリードした見田宗介のアプローチに近いのかもしれない。一貫性があるようでない融通無碍な体系としか言いようがない。

 このような哲学はもはや存在しえない。哲学が制度学問になったことも大きい。従って、現代からみれば時代遅れの側面もあるが、汲み取れるものは大きい。20世紀の哲学の生みの親であり、ヘーゲルを乗り越えている哲学はないといっても過言ではない。

 このようなことから、ヘーゲルの欲望論を明確にした上で、議論の広がりと定位をおいて、整理する。そして、真木悠介(見田宗介)とA.マズローの欲望論を論じ、価値との関係での欲望論の実務的な内容に落としこんでいきたい。

第1節 ヘーゲルの欲望論

 ヘーゲルが欲望を論じているのは、「精神現象学」である。精神現象学は、人間の精神が、感性的な意識から自己意識を経て絶対精神である理念へと至る発展過程を描いている。ヘーゲル特有の「くせ」と弁証法的展開が入り交じり、解釈は難しい。加えて、論争点が多く、専門家での共通の解釈はない状况である。ここでは、専門的議論はさておき実務に繋がる内容を切り出したい。

 ヘーゲルの欲望論は、意識一般から自己意識、理性へと至る過程の自己意識論で展開される。

 生き物の「欲望」は、「他を否定して自己の自立性を維持すること」である。例えば、動物は、食欲を持ち、ジャングルルール(弱肉強食)に従って、殺生をおこない、食べて自分の身体を維持する。これは人間も共通である。しかし、人間は他人との関係で生きていく。従って、自立性の維持には、他人を支配し奴隷化(力による承認)するか、相互承認するしかない。この人間的な欲望の本質は、他人の承認を通じた「自己の自立性についての自己確証」である。

 ヘーゲルはこのように欲望を自己意識の契機と捉えた上で、市民社会を「欲求の体系」(「法の哲学」)と捉えている。

 「欲求」とは、欲望が、商品などの客観的な対象になり、特定されたものである。体系は、それらの欲求が市場による商品交換によって充足される市場メカニズムを意味する。そして、その背後には、労働によって、欲求を充足する商品を購入し、消費するという社会が想定されている。

 17~18世紀頃に成立したヨーロッパ市民社会は、ローマ・ギリシャの奴隷制市民社会、中世ヨーロッパの土地封建制、そして、市場経済を基礎とした社会へと発展した。

 ヘーゲルは、市民社会では、「相互承認」によって、欲望を充足する社会になったと見なしているようだ。ヘーゲルの市民社会は、「神の見えざる手」で需給(欲望と労働)調整されるスミスの「諸国民の富」があることはよく知られている。

第2節 欲望とは「自己の自立性についての自己確証」

 ヘーゲルの欲望論は、社会総体と意識における欲望の枠組みを設定し、経済学的な価値と関連づけてくれる。

 人間は、自己意識のもとで欲望を抱き、それを満たすべく労働し、物を生み出す(外化する)。この想定では、「欲望―物―消費」という人間と自然の単純な物質代謝が成立している。「自己の自立性についての自己確証」(欲望)は充当し完結している。

 初期のマルクス(「経済学・哲学草稿」段階)は、この労働の認識を完全に引き継いでいる。さらに、「類的本質」(人間のあるべき先天的特性)という捉え方をしている。「国民経済学」(スミス、リカードなど)から経済学概念を学び、より厳密化しているにすぎない。この労働観に、私有財産の否定と資本家と労働者の階級対立という思想が接ぎ木されている。

 「労働疎外」という概念は、ヘーゲル的な欲望労働観を理想とし、それが実現しない理由を、私有財産制や階級対立に求めている。人間の欲望は、「自己確証」であり、他人の「承認」がいる。資本家は、資本力によって、労働者の成果物を奪うことによって「自己確証」を得て、労働者は、成果物を生む喜びを味わえるが、対価を支払わなければ手に入らない。自分の労働の対象物が、疎遠なものとして現れる。これが「労働疎外」である。

 この設定は「原初状態」の仮定である。この仮定を現実のものとしようとするのが、いわゆる「空想的社会主義」であり、現代的には「コミューン」である。

 ここには、幾つかの重要な価値との繋がりについての論点が隠されている。

 欲望を満たすものが価値と定義され、労働が価値の源泉となっているということである。つまり、価値の根拠は欲望である、といえるのは、そもそも欲望を充当する有用なものを、労働によって生み出そうとしているからである。

 さらに、欲望が客観的な対象と結びついた「欲求の体系」の社会では、欲望を充当するために「他者承認」を必要とする。その結果、社会的分業で生産される商品は、他者の承認が得られる「社会的欲望」に過ぎない、ということである。

 最後に、欲望の対象となる有用なもの、つまり、価値は、分業による労働によって生み出されるということである。ここで、古典経済学の「投下労働価値説」と一致する。

 マルクスが切り取った欲望と労働の「原初状態」にはどういう意味があるのか。現状を分析する際に、なんらかの「現象状態」を仮定し、そこからの変移として捉える方法論は、 「発生史的方法」である。ホッブズ、ルソーなどの国家の導出に利用されている。近年では、J.ロールズの「正義」の定義に使われている。この方法論は、現代の主流である数学的な形式的演繹手法とは馴染みにくい。

 「中期マルクス」(「経済学批判要綱」段階)では、「類的(人類)本質」である「労働」が「疎外」されているというヒューマニズム的な認識はなく、「労働過程」として概念化され、自然と人間の物質代謝、自然史的過程として発展して捉えなおされている。ヘーゲルの人間史に対して人間を包括する自然史を基礎にしている。

 しかし、マルクスは、精神、文化、国家に関する論理は、ほぼ肯定し、ヘーゲル体系を上部構造論として捉え、下部構造として資本論を体系化し、自然史として世界総体を捉えるという論理を構築する(筆者私見)。

 従って、ヘーゲルの「原初状態」の仮定によって、欲望―労働―価値―消費の基本的な論理を導出できるが、それは、検証できない「グランドセオリー」である。

第3節 ヘーゲル欲望論の現代的拡張

 欲望とは、他人の承認を通じた「自己の自立性についての自己確証」である。この洞察は、現代でも生々しい。しかし、およそ200年が経過し、この欲望概念は拡張されねばならない。自己のない意識から自己意識へ、自己意識から理性へと精神は発展していく。欲望は、意識から自己意識へ転化する段階のものである。自然と社会から疎外され、他者承認を通じて自己の自立性を自己確証するのが欲望の本質である。

 現代なら世界の若者が自分のアイデンティティ(自己同一性)を求めてタトウーを入れたいという欲望を持つことに相当する。しかしながらタトウーを幾ら入れてもアイデンティティは獲得できない。他者承認がなければ自己確証が得られないからだ。ヘーゲル欲望論は現代でも十分に通用する。

 しかし、その後の精神分析、行動心理学、脳科学、社会学や進化論の進展によって、拡張する必要がある。拡張の方向性は五つある。

第1項 自己意識を無意識へ拡張

 第1に、ヘーゲル欲望論から拡張されるべきは「無意識」である。

 ヘーゲル以降でもっとも大きな変化は、フロイトによる無意識の「発見」である。

 人間の行動は、無意識に規定されている、という論理は、理性=自我による行動を合理的で、感情などは攪乱項に過ぎないと考えてきた、理性を前提にしたパラダイムに大きなゆらぎをもたらした。

 実際、フロイトの精神分析は、第1次世界大戦下のノイローゼや不安神経症で悩む患者を治療し救ってきた。フロイトの生きた19世紀末から20世紀初頭は、戦争と革命の時代である。こうした時代背景のもとで、フロイトは多くの患者の臨床において、「無意識」の存在を確信し、「イド(エス)―自我―超自我」という「局所論的自我モデル」を提案した。神経症は、このような自我構造から生まれることを導いた。

 フロイト理論における欲望とは、精神そのものを働かせ、精神エネルギーである仮想物質である「リビドー」である。そして、「快楽原則」に従う、性欲を含む「イド」である。人間は、「発情期のない」ことに象徴される「本能の壊れた動物」(岸田秀)である。

 フロイトは、第2次世界大戦後の国連を介したアインシュタインの「人間はどうして戦争をするのか」という質問に答えて、戦争は今後もなくならない、それは人間が闘争本能を持っているからだ、と答えている。さらに、晩年には、「エロスとタナトス」論において、無意識における「生の欲動(Trieb)」と「死の欲動」という捉え方を提示している。欲動とは、対象が限定されたリビドーとして捉えられている。従って、死への内的志向性である。フロイトは、マゾなどの性癖などの苦痛を求める性向に死の欲動を見い出した。

 理性への過程としての自己意識は、無意識を含んでいると拡張する。この拡張は、商品の価値の「手段目的連鎖」の解釈と根拠となる欲望の言語化に必要である。人々は、商品の価値を言葉で表現することはできない。商品を選んだ理由に、自己実現価値をあげる人は多くはない。理由があげられたとしても、それを説明することは難しい。なぜなら価値や欲望は前意識や無意識の次元にあるからだ。

 あらゆる商品サービスの評価は、言語的には、属性や機能の評価、ベネフィット、そして、価値へと結びつく。これを引き出すにはインタビュースキルが必要だ。価値レベルの言葉は、前意識や無意識のレベルにあるからだ。そして、この前意識、無意識にあるものが欲望である。

 欲望に備給するエネルギーは、誕生の際の「原不安」をもとに発展し、他者を模倣していくことによって進化していく、「リビドー」とするのが適当である。

第2項 欲望の主体の拡張

 ヘーゲルの欲望主体は、自己意識の主体である個人である。しかし、個人の意識が他者の影響を大きく受けることが知られるようになった。

 戦後、知の領域に大きな影響を与えたのは「構造」の問題である。ヘーゲルは人間中心主義のもとにある、人間の理性にもとづく意志を前提にしている。これに対して非人間主義の枠組みが提示された。

 人間中心主義がもたらす西洋思想の優位性は、レヴィ=ストロースなどのフランスの文化人類学によって根底から批判されてきた。未開民族の研究を通じて、理性による科学的思考は、単なるひとつの見方の枠組みにすぎず、未開民族は科学に匹敵する。

 例えば、植物分類体系を持っていることが明らかにされた(「野生の思考」)。さらに、一定の民族にみられる「交叉いとこ婚」は、未開性と偶然性が支配しているのではなく、集団と集団の交換関係があることを明らかにした(「親族の基本構造」)。さらに、M.フーコーは、近代の経済学などの諸社会科学に共通する枠組み=構造があることを明らかにした(「言葉と物:人文科学の考古学」)。

 こうした人間を中心にした人間主義(ヒューマニズム)、人間の発展を中心に据えた歴史主義は乗り越えるべき対象となった。この流れを受け継ぐ、ドゥルーズやガタリは新たな欲望論を展開した。現代社会を、精神疾患をもつ患者とみなし、欲望の主体を社会の構造に求める「欲望機械論」を展開した。これは欲望の源泉を個人に求める限界を社会や構造に拡げる可能性を広げた。

 こうした欲望主体の問題は、「欲望とは他者の模倣欲望である」(岸田秀、ラカンやルネ・ジラール)という現代の欲望本質の問題にも関わってくる。

 ヘーゲルの欲望の本質は「自己の自立性についての自己確証」である。これは他者承認が必要となるので、他者の模倣欲望へと繋がる。どうして他者承認を必要とするのか。それは、限られた有用性を他者から奪うことによってしか自己確証できないからである。これは、他者が進んで承認した結果ではないので、自発的な承認ではない。他者を支配して他者から承認されるという関係に陥る。従って、自己確証は得られない、という円環的循環にならざるを得ない。この関係が欲望の他者依存性に繋がり、社会関係と構造という非人間的な「機械」が生み出すものとなる。

 ヒトは誕生の際に、母胎における完全な自在存在から環境、温度も劇的に異なり、エラ呼吸から肺呼吸に変わるという大きな衝撃を受け、自らでは自分の生命を維持できない完全無力な存在として誕生する。これが「原不安」と呼ばれる。その結果、生きながらえるために、自分の生命を維持してくれる他者の自我を模倣して、自我を形成する。

 最初の模倣対象が「母親的」他者である。そして次に、「父親的」存在へと移行し、生物的な性差によって「エディプス複合」や「エレクトラ複合」を形成し、社会関係の広がりに応じて、自らの不安を取り除いてくれるような存在の自我を模倣するようになる。つまり、自我とは「他者の自我の集積」となる。模倣欲望とは、解消することのできない原不安のための防衛機制の結果である。

 欲望とは、原不安をもとにした模倣欲望である、という捉え方である。しかし、これは個人の欲望であることは確かだが、自己と他者の関係性で生まれる社会欲望であり、共同幻想である。

 従って、欲望主体は、個人の欲望であるが、他者の模倣欲望の結果であり、共同幻想を生む「社会構造」が生み出したものである。ヘーゲルの欲望論を個人欲望から「欲望機械」へと拡張して考えることにする。

第3項 エビデンスアプローチへの拡張―脳科学

 「コンビニに行くとつい買ってしまう缶ビール」や「とりあえずビール」と言ってしまうのは、無意識によるものだ。また、何らかの学習効果と考えることもできる。

 パブロフの犬の実験や「行動主義心理学」など行動を規定する要因を学習に求める心理学研究が進んでいる。条件づけによる学習によって、行動をコントロールできるというものだ。最近では、fMRIを使った脳の血流から新たなことが明らかになっている。概略は他書にゆずる(「『買わない』理由、『買われる』方法」)。さて、これらの学習理論は、心理療法や耳鳴り治療に活用されている。これらの実験で明らかになっていることは、条件づけさえなく、繰り返し反復行動をすれば、人間はある刺激に対して一定の反応をするように条件づけられるということだ。冒頭の例でいうならば、コンビニに入ると、ルーチンでクーラーの前に行き、いつものブランドの缶ビールを買い、家で飲めば、満足感が得られる。この最後の報賞を得るために、一連の行動が学習されているということだ。

 最後の報賞を得るための一連の学習行動である。敢えていうならば、動機づけになっているのは、ビールを飲んだ際に得られる満足感である。恐らく、この満足感は大脳辺縁系に放出されるドーパミンである。これはある意味でもドーパミン依存である。ここでは、欲望ではなく、ドーパミンへの生理的欲求が行動の動因になっている。因みに、戦後、アメリカでは、動機理論と行動主義が心理研究を二分した。動機理論(drive theory)は、行動の要因として内因の動因(motivation)と外因としての誘因(incentive)を想定する。動機があり、誘因によって誘発されて特定行動が生まれるという考え方だ。マズローの「欲求5段階説」は、この動因として想定されていたものである。

 学習理論は、生物的次元での生理反応があることを示すが、この次元の欲望はもっとも低次の自然的欲望である。このアプローチでは、ドーパミンが欲望の物質的基礎になる。しかし、この解釈に定説はないが、操作は可能である。ドーパミンで行動を誘導できる可能性を持っているということである。しかし、このアプローチは、選択の自由を奪うものであり、医療以外では、社会的に許容できるものではない。

 このような欲望の脳科学アプローチはますます増えていく。欲望論を拡張するためには、このようなエビデンスにもとづくデータによる検証可能性も視野に含めておく必要がある。