本コンテンツは、「オムニ・マネジメント」(日本経営協会)2015年9月号に「消費社会を生んだ駅の進化と新しいマーケティング発想」と題して掲載されたものです。
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大衆市場を生んだ鉄道と駅
日本の歴史で、祭りなどの非日常を除いて、日常的に「不特定多数の消費者」、つまり大衆が登場したのは、明治以降の鉄道の敷設によって「乗り換え」駅、ターミナル駅ができてからである。人々は、会社勤めなどのために移動し、駅には日常的に「不特定多数の消費者」が現れた。そして、彼らを買い手として見る商売が生まれた。大衆市場を相手にするビジネスである。江戸時代の顔見知りの顧客を相手に「のれん」で信用商売することからの大転換である。
なぜ、このような不特定多数の人々が日常的に移動するようになったのかを深掘りすると、鉄道敷設と駅の果たした歴史的な役割が見えてくる。それは、現代ではあまりにも当たり前すぎる、日常の通勤と買い物を必要とする中流生活とライフスタイルである。
話は江戸・明治・大正にさかのぼる。
場所は江戸東京である。江戸時代がどんな生活であったかは実は、なかなかわからない。歴史考証の甘いテレビドラマなどの時代劇では、丁髷と刀を除けば現代生活と変わらない印象を持つ。現代の中流層に繋がるのは、おそらくは落語で登場する長屋暮らしの人々である。江戸の武士比率は数%だと推定される。従って、武士の比率の高い江戸の住民の半数を占める長屋暮らしの町人と、明治維新後に、薩長土肥などの明治新政府の担い手となる下級武士層が中流層になっていく。
江戸の長屋暮らしの生活を江戸研究の第一人者である三田村鳶魚の著作や喜田川守貞「近世風俗志(守貞謾稿)」から探ってみると、次のように想像できる。
幕府の「町割政策」によってつくられた借家長屋での共同体暮らし。日銭を、食料や日用品の「棒手振り」などの雑業などで稼ぐ。日銭で稼ぎが得られれば、世帯を持てるようになる。夫婦と子供はすべてが稼ぎ手であり、みんなが家事をした。生活に必要な財は、商品を天秤棒に担いで売り歩く「棒手振り」から購入して生活した。
ここで注目したいのは、移動手段が主に徒歩であること、職場と住居の分離がないこと、明確な男女間の性別分業がないこと、子供が教育の対象ではないこと。そして、買い物がないことである。
この生活に大変革をもたらしたのが、鉄道敷設である。
1868年に始まった戊辰戦争の終結によって、幕府と薩長土肥など倒幕派との争いは決着し、明治新政府によって、日本の近代化が進められることになった。
しかし、一国の独立を守る富国強兵と近代化に必要な技術、人材や設備はなく、欧米諸国から輸入するしかなかった。政府は、現金納の租税制度も未確立で、財政難を乗り切るために、江戸の豪商三井家から融資を受けるほどであった。
政府は、なんとか外貨を稼げる輸出財を探索する必要があった。各国の在外公館に調査を命じ、絹糸、生糸が国際競争力を持つことが明らかになった。生糸の産地であった群馬に目をつけ、生産地から輸出港である横浜までの鉄道を民間主導で敷設した。鉄道の歴史は、1872(明治5)年の新橋-横浜間の開通がよく知られているが、中流のライフスタイルに大きく関わるのは、1883(明治16)年の上野-熊谷間、1885(明治18)年の赤羽-品川間の開通である。これらの線の開通によって、現在の山手線の左半分が形成された。