市場の黄昏論を破る

2009.06 代表 松田久一

 印刷用PDF(有料会員サービス)

図表
図表

 根拠なき日本の衰退論や黄昏論が蔓延している。

 サッカー日本代表がW杯予選でまたもオーストラリアに負けてしまった。実に哀しく、そして、口惜しい。

 閑話休題、日本の衰退論には異議がある。現実的な根拠が薄いからだ。確かに、少子高齢化で人口は減少している。中国をはじめとするBRICsの成長の勢いは止まらない。今年度は、60年ぶりにGDPで世界第2位の座を中国に奪われる可能性がある。

 日本の人口が減り、中国に経済規模で追い抜かれることと、日本の衰退とは無関係である。個人所得で中国が日本に追いつくのは予想もできないほどまだ先の話だ。円安で順位を下げたが、一人あたりのGDPも円高で今年はまたOECD諸国の上位への返り咲きだ。日本には約1,400兆円の個人金融資産もある。日本の次世代技術への企業の研究開発投資も世界有数である。

 何よりも、二十一世紀の日本は人口減少に陥るとはいえ、およそ一億人の人間が生活をしていかねばならない。グローバル競争に生き残って、あくせくと生活していかねばならない実利の問題を、「負けた方が美しい」などと美意識の次元に引き上げて誤魔化しても仕方がない。

 問題は、衰退は日本の運命だと捉え、「敗北の美学」に陥って自己満足してしまう愚かさが、市場の競争観にまで及んでしまうことだ。戦わずして競争に敗れ、自らの地位が落ち、生活が貧しくなっていくことを運命として受けとめ、生き残り競争を回避するのは、日本の百姓、町人や職人根性とは違う。

 江戸時代、日本人の武士階級の割合はわずか数%にしか過ぎなかったと推定されている。現代の日本人は、いつの間にか自分の祖先は武士だと誤解している。戦前の保田與重郎や戦後の三島由紀夫が惚れ込んだ「敗北の美学」は武士の生き方であり、美学だ。

 ぱっと咲いてぱっと散る桜は美しいが、ビジネスではそうはいかない。

 事業には、ヒト、モノ、カネが張り付いている。何よりもお客さまへの責任がある。

 日本には優れたマーケティングコンセプトが幾つかある。そのうちのひとつが、製品や市場の衰退を宿命として受け入れなかったことだ。売上や利益が減少しても市場衰退期と見なして、R&Dもマーケティング投資もせずに、残った利益を刈り取ってさっさと撤退してしまえ、というような戦略はとってこなかった。

 勝負に勝つには、負けることを潔いとし、宿命として受け入れる敗北の美学を捨てねばならない。問題は、市場の客観的な情況を自らがどう受け止めるかであり、主体的な判断と選択の問題である。市場の成長率が落ちるのは、市場である顧客の数が減少するからではなく、代替技術や競争などに主体的に対応できないことが原因だ。宿命ではない。

 ビジネスのW杯では、負ける訳にはいかない。

 ビジネスでも、スポーツでも、戦争でも、戦いの力は、物質的な諸力と精神的な諸力の積である。敗北の美学が力を発揮するのは、戦力で絶対に劣る、勝てない相手にあたった場合だけだ。相手が対等だったり、自分より弱かったりすると、精神的な諸力が1を切ってしまう。従って、戦力は常に実力を下回る。1点でもリードしたら守り抜き、弱い相手でも徹底的に叩き潰すことができるようにならねばならない。

 情報家電、自動車での市場競争でも戦い方は同じだ。欧米相手にキャッチアップ競争をしている時は強さを発揮してきた。しかし韓国、中国などアジア諸国がライバルになると弱い。そもそも相手が激しい競争をしかけているのに、日本企業は相手をライバルだと思っていないのだ。

 日本人ひとりひとりが人生の勝利者になるために、ビジネスのW杯では負ける訳にいかない。

 日本の百姓の戦いぶりを世界に見せてやらねばならない。黒澤明監督の名作『七人の侍』(1954)で描かれた百姓と野武士との戦い方こそが見本だ。明確な戦略の立案、防御の布陣、陽動による個別撃破、そして、浪人である用心棒の活用などである。そして、何よりも生き残りたいという強い意志があった。

 江戸時代の米づくりの技術が、戦後のものづくりに継承され、日本は経済大国となった。現在は、さらに、コンテンツづくりの技術に繋がろうとしている。この強みを生かすには、リアルな情況の認識、独創的な戦略構築、そして、新しい勝負観が要る。何よりも根拠なき宿命としての衰退論は、日本文化の博物館に展示すべきだ。古い鎧など役には立たない。

[2009.06 MNEXT]