VI. 哲学や思想について

生活研究所報 第一巻第三号 刊行にあたって

1993.06 代表 松田久一

本コンテンツは、「生活研究所報 Vol.1 No.3」の巻頭言として掲載されたものです。

 最近、岩波書店が、相次いで、「現代思想」「社会科学」という視点からシリーズ本を編集刊行しています。

 内容は粗雑そのものですが、新しい知の再建をめざそうという志には共鳴を寄せるものです。

 特に、社会科学の領域における状況には惨櫓たるものがあります。いわんや、マーケティングをや、です。

 「暗黙知」、「ゆらぎ」、「編集」、「ネットワーク」等の概念を並べ立てて、「近代の超克」をスローガンに事を済まそうとする態度に怒りを感じます。

 丸山真男、大塚久雄、宇野弘蔵という戦後の社会科学をリードした人達は凄かった、とつくづく思います。

 象牙の塔の方がよかった。まだ、少しでも現実を切開できる力をもっていたように感じる人は私たちだけではないように思います。

 どこに原因があるのでしょうか。それは、言うまでもなく、現代という時代の困難さにあるのでしょう。

 この状況のなかで、岩井克人さんが「貨幣論」(筑摩書房)を出されました。

 この本は、連戦連敗が続く社会科学のなかで、金字塔のような一冊だと思います。

 「ベニスの商人の資本論」に続く、岩井さんの専門外の領域への挑戦、第2弾です。岩井さんのマルクス論の新たな展開でもあります。マルクス経済学には門外漢だと自認されているわりには、最新のマルクス研究を踏まえての要領を得た「現代社会の認識論」、となっています。貨幣論というタイトルですが、危機論であり、不況論であり、インフレーション論であり、現代の価値論にもなっています。

 岩井さんには、資本主義社会は、その原理通りに動けば暴走するのだ、という認識があります。人々が「合理的個人」として行動すれば、ハイパーインフレーションや不況を生んでいく。それを阻止しているのは、合理性以外の倫理や行動、労働組合の存在による賃金の下方硬直性、社会主義国家の存在等であると主張します。これらの存在こそは、近代経済学が「混乱項」として扱ってきたものです。その意味で、資本主義は自らの生み出さない外部によって、自らを維持するというパラドックスのシステムという新しい資本主義社会像を提示しています。

 物が売れ残る不況が生まれ、貨幣への選好が強まるということは、資本主義のメカニズムが健全に作用しているということであって、まだましなのだ、本当の危機は、旧ソ連や南米でみられる貨幣ばなれによるハイパーインフレーションによる危機だ、ということです。現代は、社会主義が資本主義に転換し、世界市場システムは、資本主義だけのシステムとして閉じてしまった。これからが、本当の危機がやってくるんだ、というところまで深読みすることもできます。世紀末、不況のつぎにやってくる危機こそ深刻なんだ、という認識です。

 マルクス「資本論」の価値形態論、ワルラス、ヴィクセル、ケインズの巨匠の論理を、まるで散策するように、自由にあやつりながら自分の論を展開しています。冷戦構造が終焉しマルクスがイデオロギーの牢獄から釈放されて、さあ、これからマルクスの決算をしよう、資産の棚卸しをしよう、という試みのなかで、最初に出た画期的な一冊になっています。優れて現実の課題を意識しながら、新しい理論の地平を切り開いています。

 岩井さんは、近代経済学の分野では不均衡動学という分野の専門家です。そのものずばりの「不均衡動学」という著作も持っておられます。しかし、この「貨幣論」では、最新の資本論成立史と価値論論争をきっちり踏まえながら、そのことを臆面にも出さない展開になっています。好感のもてる一因でもあります。

 久しぶりに現実を切開できる力をもった著作です。いち押しです。

 この成果に少しでも近づきたい思いで「蟻の一歩」としてこの巻を構成しました。

 「貨幣論」とあわせて自選します。

[1993.06 「生活研究所報 Vol.1 No.3」 JMR生活総合研究所]