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VI.哲学や思想について
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現代社会批判の21世紀的原点
−マルクスの仕分け

書評 向井公敏著、「貨幣と賃労働の再定義−異端派マルクス経済学の系譜」

代表 松田久一


 マルクスが1818年に生まれておよそ190年、彼の初版資本論が1867年に発刊されて、約140年が経過している。日本の歴史のなかで比較すれば、マルクスが江戸時代の安政元年の生まれで、島津久光よりも1才若く、勝海舟よりも5才年上で、明治維新の前年に資本論が出版された事実に少々戸惑う。江戸時代の思想には到底思えないからだ。そして、マルクスが近代の歴史に残した負債も含めた遺産の大きさに改めて驚かされる。20世紀は社会主義国家の誕生と革命運動が隆盛し、マルクスと彼の理論は、信仰と崇拝の対象として厚いベールに覆われてしまった。それが、ベルリンの壁の崩壊によって取り払われ、マルクス理論の現実の姿が現れ、現代社会にとっての知的遺産の毀損状況が公表されるはずであった。しかし、残念ながらその期待は見事に裏切られ、雇用の非正規化、下層化が指摘されるなか、戦前の悲惨な労働者の状態を描いた小林多喜二の「蟹工船」や「誰でもわかる」式の資本論解説書が書店の店頭に並び、マルクスが「ゾンビ」のように「さらし者」になっただけであった。マルクスが、マルクスとは無縁に持て囃される「歴史は繰り返される」。1度目は、20世紀の悲劇として、2度目は、21世紀の茶番として。マルクスがナポレオン3世による革命を評したようにヘーゲルを真似して風刺してみたくなる。

 向井公敏著の「貨幣と賃労働の再定義−異端派マルクス経済学の系譜」は、欧米のマルクス研究を紹介しながら、待望久しいマルクス理論の現代的決算をなし遂げた研究書である。著者は、30年以上の緻密なマルクス研究の成果をもとに、マルクス理論の現代的な「仕分け」の結果である決算書を公表した。比類なき知的な誠実さで、もっとも厳密な読みで、マルクスの理論を解剖し、マルクス理論のなかの「葬るべきもの」と「蘇生させるべきもの」を明らかにしている。

 しかしながら、純粋な研究書としての性格から、戦前から続くマルクス経済学の研究史、資本論成立史や「資本論」、「経済学批判要綱」等の知識がなければ容易には読めない。また、現代の賃労働者である普通のサラリーマンや資本家である経営者が何を汲み取ればよいのかも読者に委ねられている。

 評者は学生時代に、著者からせっかくの教えを乞いながら、少々マルクスをかじった程度に終わってしまった。著者の最初の収録論文は、およそ20年前の発表時から読ませて頂いているものの、著者がマルクスを読み込んだように読める知識も能力もない。しかし、誤読と誤解を恐れず、「教え子」としての評者が読んだマルクス理論の「葬るべきもの」と「蘇生させるべきもの」、そして、マルクス理論の現代的意義を解釈してみたい。

 本書は、大きくII部に分かれている。「第I部マルクス価値論のプロブレマティーク」と「第II部賃労働関係論の再構築に向けて」である。

 第I部は、資本論では、「第1部資本の生産過程第1篇商品と貨幣」の「第1章商品」、「第2章交換過程」、「第3章貨幣または商品流通」が対象である。資本主義とは、生活に必要な物やサービスが、「商品」として全面的に取引され、流通する社会である。マルクスは、資本主義の「解剖」にあたり、「商品」から分析を始める。そして、価値の分析から貨幣へ、そして、貨幣から資本へと抽象化し、資本を概念化していく。通俗的には弁証法的な概念展開の方法と呼ばれる。

 標準的なミクロ経済学では、消費者の需要理論、そして、企業の供給理論、そして、完全競争、寡占や独占市場と展開される。資本論では、これらは資本論第3巻である「資本の総過程」に対応するものであるが、比較してみると、資本論第1巻でのマルクスの理論展開の方法は、現代の経済学が前提とし、理論化の対象にしていない商品、価値、貨幣に分析の重点を置いているところに特徴がある。つまり、標準的なミクロ経済学では答えられない三つの本質的な疑問、すなわち、商品とは何か、価値とは何か、貨幣とは何か、を解こうとしている
 三つのなかでも、価値とは何か、はもっとも本質的な問いである。同時に、この問いの答えはマルクス理論が現代でも通用するかどうかの試金石ともなる。

 商品は、消費者の何らかの役に立つという「使用価値」の面と、他の商品と交換できる「交換価値」の二重性を持っている。このような取引関係が全面開花しているのが資本主義社会の特徴である。使用価値は、個々の消費者や文化や歴史によって異なり、様々であることはわかるが、普遍的な取引を可能にする交換価値は何によって構成されているのだろうか。
 スミスやリカードなどの古典派経済学なら、「血と汗と涙の結晶」である「労働の体化」と答える。労働者が費やした労働時間によって測定される労働という実体である。マルクスも、このような労働概念を駆使することによって、ほぼ同じ論理を継承展開している。他方で、マルクスは、価値を、実体概念としてではなく、社会関係のなかで実現される関係概念と捉えようとしている。マルクスには、このようなふたつの読みが可能であり、論争点となってきた。前者は、政治的な意味での「正統派」系が支持し、後者は、戦後のマルクス系哲学を代表する廣松渉などの「非正統派」系によって主張されてきた。

 著者は、イデオロギー的に支持されてきた体化労働説は、マルクスのもうひとつの理論的側面を無視し、現代ではあまりにも「古臭くて」通用しないと批判し、返す刀で、後者を、価値の質的側面だけに着目し、マルクスの量的側面の記述との矛盾に眼をつむるものだと批判する。そして、両者のマルクス価値論の解釈は、「表層」で展開される「貨幣以前の価値形態論」の罠に陥っていることにあると分析している。そして、その罠はマルクス自身が自覚することができなかったものである、と論証する。「深部」で読み解けるのは、初版資本論で見られるもうひとつの「価値形態論」である。その深部の価値とは、貨幣によって通約される「透明に凝固した労働の凝固体」である。ここでの労働はもはや体化労働とは言えないものであり、貨幣による社会関係の通約物としか言いようがない。
 著者は、マルクスの著作のドイツ語版やフランス語版のオリジナルと向かい合い、旧西ドイツのバックハウスなどの研究を紹介しながら、マルクス自身が自負した「人類史はじめての試み」を「失敗」と「通俗化」と断じている。その上で、現代に生かせるマルクスの価値論を再構成している。
 特に、多くの知識人に影響を与え、形式論理学とは異なり、ヘーゲル哲学に代表される弁証法の論理の最良のテキストとされてきた価値形態論をマルクスの「失敗」と断定している。この意義は大きい。価値形態論とは、商品の価値が、他の商品の使用価値によってしか表現できない矛盾が、貨幣の出現によって、止揚される論理的展開である。

 個別の商品の価値は、他の商品との関係によってしか表現できない。

 「20エレのリンネル=1着の上着」

 というように、である。この時、リンネルの価値は、上着の使用価値によってしか表現されない。個々の商品の価値が他の商品の使用価値によってしか表現されない形態である。この第I形態は、単純な相対的価値形態と呼ばれる。この形態は、いろんな商品との関係を広げることができる。第II形態は、単純な相対的価値形態の展開形態と呼ばれる。

「20エレのリンネル=1着の上着
=10ポンドの茶
=40ポンドのコーヒー
=その他の量のその他の商品」

である。第III形態は、すべての商品が、同じ商品の使用価値によって表現された価値形態である。

「1着の上着
 10ポンドの茶
 40ポンドのコーヒー
 その他の量のその他の商品20エレのリンネル」

である。この場合は、リンネルが共通の等価物になり、一般的な価値形態と呼ばれる。第IV形態は、第III形態が、「逆立」し、等価物が他の商品の使用価値によって表現される形態である。

「2オンスの金=20エレのリンネル
=1着の上着
=10ポンドの茶
=40ポンドのコーヒー
=その他の量のその他の商品」

である。これは、貨幣形態と呼ばれる。
 商品による取引が全面的に展開する社会では、商品の価値は、他の商品によってしか表現できない。この矛盾が貨幣を誕生させ、貨幣の出現によって矛盾は解決される。現行資本論の価値形態論の概略的な論理展開である。さらに、論理展開を、物々交換から始まる経済の歴史展開と一致するような歴史=論理展開をとっているのも現行版の特徴である。

 著者が論理的な失敗と断じているのは、形態IIIから貨幣形態の導出である。それは、マルクス自身に依拠している。マルクスは、初版資本論で、価値形態IIIから貨幣形態への転換のなかで、「リンネルに当てはまることは、どの商品にもあてはまる」と述べている。すべての商品は、一般的等価物になる可能性を持っている。そのなかから、「金」のようなひとつの商品が析出される必然性はどこにもない。初版資本論のマルクスが現行資本論のマルクスを先取りして批判しているのである。つまり、貨幣形態の出現は、貨幣の歴史的出現を前提にしない限り、論理的には導出できない。しかし、その後のマルクスの記述は、価値形態を、物々交換から説明し、貨幣の発生を説明するような歴史通俗的な説明に変わり、理論的導出は後退していく。著者は、エンゲルスのアドバイスと自身の判断によって、新しい答えの可能性を自らの手によって閉じた、と結論している。「マルクスは貨幣形態の理論的導出に二度失敗しているのである」。今村仁司は、この論理を暴力論に展開し、「第3項排除」の論理を構築し、新たな権力論を構築した。柄谷行人は「価値形態論」を、数学、哲学、文学、言語論に普遍的な「形式化」の問題として捉えた。岩井克人は、価値形態論に潜む論理的な循環的矛盾を貨幣のパラドックスとして積極的に捉え直し、常に、暴走する貨幣の本質を摘出した。これらの日本の知識人を代表する議論は、マルクスの価値形態論を是とする前提によって成立している。著者は、これらの議論の成立根拠を根底から突き崩している。著者が、直接的に言及している訳ではないが、弁証法に夢を抱いてきた知識人に、少なくともマルクスの理論には、論理的に成功している弁証法はない、と論じている。

 第II部は、「賃労働関係論の再構築に向けて」である。資本論では、「第3篇絶対的剰余価値の生産 」、「第4篇相対的剰余価値の生産」、「第5篇絶対的および相対的剰余価値の生産 」、「第6篇労賃」を主に対象とする。さらには、マルクスの目指した経済学批判の体系の「プラン問題」が研究されている。
 周知のように、資本主義社会は、資本家が労働力を他の商品と同じように購入するという労働力の商品化を前提に成立する。資本家は、他の商品取引と同じように、労働者から「労働力」商品を購入し、対価としての賃金を支払う。
 資本家と労働者のこの取引契約は、両者の「自由」な意志によって、「平等」な関係で行われる。表層から見れば、「自由」と「平等」の理念が資本−賃労働関係を覆っている。しかし、深部では、資本家は、潜在的な可能性としての労働力を購入し、実際にはその対価以上の労働の抽出を目指している。つまり、労働者の創造する価値と賃金の差である「搾取」によって、自己増殖、つまり、利潤を目指す資本の論理は成立するが、そのためには、資本家による労働者の支配が行われねばならない。つまり、資本−賃労働関係が、搾取なしでは成立しない資本の論理に繰り込まれねばならない。

 マルクスやマルクス理論の再構築を目指した宇野弘蔵も、このような労働力の商品化の難しさを繰り返し強調している。宇野弘蔵は、マルクスの資本論を、独自の社会科学方法論にもとづいて、科学としての資本論を経済原論とし再構築した。帝国主義論と現状分析などの方法的分離を提唱し、宇野理論といわれる独自の研究がなされた。戦前と戦後の両時代をリードし、日本を代表するマルクス経済学者である。しかし、その論理は労働力商品化論で終始している。つまり、困難であるとの指摘に留まり、商品化後の労働の抽出についての考察はない。マルクス理論の現代的再構築には、賃労働の再定義、何らかの理論的補完、そして、労働力再生産の歴史的変容が分析されねばならない。

 第II部では、主に、三つの課題が追求される。具体的には、資本はどのように労働者を支配するか、労働力の再生産の鍵である賃金は何によって決定されるか、現代の資本主義はどのような歴史的特徴を持っているか、が、アメリカのギンタスやボールズ等のラディカル派の研究、レイゾニック、ハートやネグリなどの研究の紹介を通じて、展開される。
 これらの三つの課題に共通するもっとも重要な鍵となる概念は、「第14章絶対的および相対的剰余価値の生産」で展開される、「資本のもとへの資本の包摂」の概念である。「包摂、Subsumtion、Subjection」とは、労働者をいかに支配するか、あるいは、労働者がいかに資本に形式的及び実質的に従属するか、という事である。
 マルクスは、労働力を商品化が難しい商品として捉えていた。購入した労働力から労働を抽出できる保証はどこにもないからである。従って、資本家と賃労働者との市場を通じた労働契約の締結による形式的包摂だけでなく、労働を抽出するための労働過程での実質的な包摂が必要になる。幾ら雇用契約を結んでも、例えば、労働者の反抗によって確かな労働を抽出できる保証はなく、不完全なものに止まざるを得ない。従って、労働者の労働過程を統制(コントロール)することが必要になる。

 このために資本家はあらゆる努力をする。なんとしても労働者を搾取し、利潤を得なければ資本が成立しないからである。労働時間を延長したり、機械化をすすめたりするのはそのためである。資本の論理からみれば、労働者が価値を生み出してくれるかどうかは全く不確実である。抽象的な人間労働が主体の現代こそ、この問題は深刻になる。ここで、労働者を搾取する極悪非道な資本家像が立ち現れるが、マルクスは、資本家を人格としてではなく、物象的な資本の論理として描く方法をとっている。

 マルクスは、機械制大工業という新たなテクノロジーの導入によって、資本のもとへの労働の実質的包摂は完成すると考えていた。つまり、生産にとって機械が主役となり、労働者は「生きている付属物」に過ぎなくなると見なしたのである。従って、労働者の意志とは無関係に労働の包摂は完成する。他方で、労働時間などを巡る戦いなど、政治的場面での対立が激化すると展望したのである。

 しかし、実際には、生産点における労働者の役割は極めて大きく、労働者の意志、資本の側から見れば、まずは、働く意欲となる動機付けが重要なことは言うまでもない。まさに、現代の問題である。従って、労働力の非商品的性格を持つ労働過程統制の分析については、マルクス理論は、資本のもとへの労働の包摂などの概念的枠組みは有効性を保持するが、現代の分析にはほとんど通用せず、その歴史的変容を捉え直す必要がある。マルクス以後の歴史は、資本と労働との政治的対立は、妥協によって安定し、生産点における労働の抽出が課題であり続けたことを示している。

 どうしたら利潤を生むような労働を抽出できるのか。マルクス以後の歴史が証明していることは、労働過程で自然発生的に形成される熟練工による管理システムを「内部請負制」として活用したことである。資本は、資本の論理によってではなく、経済外的な要素に依拠したのである。つまり、生産の協業や分業などの労働の協同や、熟練度、年齢などによって形成される自然発生的な「親方」に、労働過程の統制を委ね、請け負わせたのである。現代で言うなら、仕事ができ、他社員から一目置かれている、家父長的な「リーダー」や「親方」を通じて、労働過程を統制したのである。男性主導の生産点ができあがるのは、このように資本主義が家父長制に依拠したからであるとのアメリカのラディカル派の論点も紹介している。

 さらに、この制度が、技術革新や資本の巨大化によって、維持できず、崩壊すると、労務管理の専門的な部門による、非熟練工の採用、インセンティブ賃金、内部昇進制、福祉プログラムを特徴とする「内部労働市場」への転換を図った。後者が現代の人事労務管理システムの根幹となっていることは言うまでもない。熟練工である「親方」に依拠してきた、採用、教育、訓練、動機管理などを組織的に組み込んだのである。

このように、労働者の実質的な包摂の問題は、労働者との政治的な対立や協調、補完によって現実化し、変容した。マルクス理論の資本賃労働関係の分析を生かすためには、労働過程の歴史的段階を補完する必要がある。アメリカでのマルクス研究を紹介しながら著者が持っている問題意識である。

また、資本賃労働関係で忘れてはならないのは、二つ目の課題である労働力の再生産と、生存の鍵となる賃金である。

 資本論では、労働力の価値は、他の商品の価値と同様に、再生産に必要な労働時間によって決まってくる。つまり、労働者の生活手段である諸商品の生産に必要な労働時間の総和となる。

 ここで想定されている諸商品とは、「必要欲望の範囲」と「必要生活手段の平均範囲」であり、歴史的に決まってくるものである。江戸時代に、車や液晶テレビは不要だが、現代ではほぼすべての家庭に普及している。つまり、「必要欲望の範囲」と「必要生活手段の平均範囲」は変わる。しかし、資本論の論理では、相対的剰余価値の生産の分析に見られるように、労働力の価値、すなわち消費水準の「外生性」と「不変性」を前提にした分析を行っている。つまり、技術進歩によって拡大した生産性の向上による必要生活手段の価値の低下を、「必要欲望の範囲」と「必要生活手段の平均範囲」を変容させるものとしてではなく、経済モデルとして見れば、常に、外部から前提として与えられ(外生性)、変わらないもの(不変性)として与えられ、モデルの内部で決定される内生変数とは見なされない。また、このことは、労働者を消費財の販路、すなわち、消費者として魅力ある市場として捉えない、賃労働者を生産面からしか捉えない部分的理解に繋がっている。
 資本論の世界では、賃金は前提とされ、不変で、技術革新による生産性の上昇はすべて資本によって蓄積されると想定されている。これが歴史的経験と一致しないことは言うまでもない。フォードシステムに見られるように、技術革新による生産性の上昇は、資本と賃労働に分配され、増えた賃金は消費市場を拡大し、現代の消費社会を生みだした。

 絶対的及び相対的剰余価値の生産の理論も、労働力の再生産や賃金などの概念的枠組みは有効だが、内実はほとんど現代に通用せず、理論の歴史的限界を示すものである。しかし、このような視座は「経済学批判要綱」には見いだせるのである。資本論にはない「必要欲望の範囲」と「必要生活手段の平均範囲」の歴史的変容を内生的に捉えようとする視座である。

 「他方では、相対的剰余価値の生産、すなわち生産諸力の増大と発展とにもとづく剰余価値生産は、新たな消費の生産を必要とする。すなわち、先には生産圏域の拡大を必要としたのと同様に、消費圏域が流通の内部で拡大されることを必要とするのである。第一に、すでに存在する消費が量的に拡大すること、第二に、現存の諸欲求がより大きい範囲に普及されることによって新たな諸欲求が創出されること、第三に、新たな欲求が生産され、新たな使用価値が発見され創造されること。換言すればこれは、獲得された剰余価値が、たんに量的に見て剰余であるに留まらず、同時に労働の(それとともに剰余労働の)質的な差異の範囲がたえず増大させられ、いっそう多様なものとされ、それ自身のうちでますます分化させられていく、ということである。たとえば、以前は一〇〇の大きさの資本が充用されていたところに、生産力が二倍になって、今ではもう五〇の大きさの資本しか充用される必要がなくなり、その結果五〇の大きさの資本とこれに対応する必要労働とが解き離されるという場合には、解き離されたこの資本と労働のために、新しい欲求を充足し産み出すような、質的に異なった新しい生産部門がつくりだされなければならない」(p264)。

 技術革新等のイノベーションによって、生産諸力が増大することによって、消費量が増え、普及によって新たな欲求が創出され、新たな使用価値を持った新商品やサービスが創造される。ここには、シュンペーターのイノベーション理論を50年あまりも先取りした観点が提出され、「『社会的人間のあらゆる属性の開発と、可能なかぎり豊富な属性・連関をもつがゆえに可能な限りの豊富な欲求をもつものとしての、社会的人間の生産』こそが『資本にもとづく生産の条件』に他ならない」(p272)と分析されている。そして、それをマルクスは「資本によるひとつの社会段階の生産」(p266)と呼んで、「資本の文明化作用」の結果生じるものと捉えている。それを担うのが、「新たな欲求」の主体としての「社会的人間」である。
 マルクスは、資本論の草稿である「経済学批判要綱」では、労働力の再生産を「賃労働」の部として、労働者と消費者の統一的な観点からひとつの社会歴史段階論として構想していたと、著者は分析している。つまり、要綱段階のマルクスは、資本−賃労働関係を、労働の包摂概念の歴史的発展段階論として、歴史的分析を前提にしていたのではないか。そして、その構想のなかには、労働者を、販路として、欲望を持った消費者として見る「労働力の再生産」の視点を持っていたということである。これは、現代資本主義を批判的に分析する上で極めて有益なものではないのだろうか、と著者は示唆している。

 三つ目の問いは、このような「資本論のマルクスを超える要綱のマルクス」の、資本による労働の歴史的段階論から見れば、現代の資本主義はどのような特徴を持っているか、である。著者は、W・レイゾニックと、ハート=ネグリの共著である「<帝国>」を批判的に検討しながら現代社会批判を試みている。
 著者は、現代社会を、19世紀とは異なる新たな「資本によるひとつの社会段階」として捉えられるとしている。

 新しい段階を捉えるひとつの手掛かりは、ジャン・ボードリャールによって直感的に洞察された消費社会への変容であるが、著者が目指すのは、労働力の再生産という理論領域の深化である。そして、ハート=ネグリによって提示された「規律社会から管理社会への移行」、すなわち、「資本のもとへの労働の形式的包摂」から「資本のもとへの労働の実質的包摂」への移行の理論的検討である。
 労働の形式的包摂や実質的包摂の分析は、契約関係や労働過程に限定されている。しかし、労働力の再生産という「生活」の観点から捉えると、重要な役割を果たしているにも関わらず、資本論では考察の対象となっていない理論的「空白」の領域がある。それは、資本主義が共存した「家父長制的労働者家族」、「大衆的教育システム」、「労働者階級の政治的統合」といった社会・文化・政治的領域である。これらの「市場の外部」における「労働力の社会的再生産管理機構」なしには、労働力の再生産はあり得ず、資本のもとへの労働の支配=包摂もあり得ない。このような管理機構の分析を最初に行ったのは、M・フーコーである。フーコーは、近代が「服従させられ訓練される身体」をつくりだし、労働者が「能力」を引き出される一方で、「服従」を強いる、監獄に見られるような「管理機構」を歴史的に見いだし、それを「規律社会」と呼んだ。

 教会、学校、監獄、家族、組合、政党などによって特徴づけられる規律社会は、同時に、欧米で典型的に見られる19世紀型の「市民社会」である。同時に、市民社会的な制度を起点に、新しい多くの欲望が次々と生まれ、欲望間が利害調整される「欲望の体系」(ヘーゲル)としての消費社会でもある。

 現代の歴史的特徴は、1960〜70年代から進む「市民社会の衰退」にある。それは、規律的体制そのものに抵抗する「社会的生産の諸価値の大規模な価値転換とさまざまの新たな主体性の生産」の進行によってである。70年代の世界的な学生の反乱、ヒッピー運動、非婚化などの進行による学校、家父長制度家族などの市民社会の諸制度を揺るがす若者などの主体が登場しはじめたからである。そして、現代の段階の資本のもとへの労働の実質的な包摂は、ハートの指摘するように「規律社会から管理社会への移行」として特徴づけることができる。国家の枠を超えた世界<帝国>によるグローバルな情報コミュニケーションネットワークシステムによる個々の生活者の「生きること」の直接管理による労働の包摂である。ネグリは、その管理社会のなかで、「有象無象」(柄谷行人)の性格を持った「マルチチュード」が新たな革命主体として誕生しているとし、新たなコミュニズムの担い手として期待を表明しているが、著者は楽観的過ぎるとしている。

 第II部で、著者は、日本には知られていないレイゾニックなどの研究を紹介し、他方で、ネグリ=ハートなどの話題の論点を批判的に紹介しながら、マルクスの資本による労働の包摂という概念の再発掘を試みている。そして、現代社会批判としてのマルクス理論の有効性を呈示している。第T部では、マルクス理論を徹底的かつ論理主義的に再構築しようと試みているのに対し、第II部では、歴史の段階規定による歴史主義的解釈が試みられている。

 およそ30年の間、評者は、著者の論文を通じてマルクスを解釈しようとしてきた。著者の仕分けは、恐らく、65%は「葬るべきもの」であり、35%は「蘇生」させ、現代的に再構成すれば、十分に現代社会批判に生かすことができるとの見立てのように思える。この仕分けを厳しいと捉えるか、まだまだ甘いと判断するかは、読者に委ねるしかない。しかし、140年間を経て3割の打率を超える理論は他にはない。アダム・スミスなら2割。現代のノーベル経済学賞クラスの研究者はせいぜい1割も打てればいい方である。

 幾つかの感想を述べたい。
 一つ目は、価値形態論を失敗と断じた評価である。著者の批判の方法は、初版マルクスによる現行版マルクスを批判する方法であり、驚くべき説得力をもつものだった。著者が援用したバックハウスの論理=歴史説の「陳腐で」「古臭い」批判は、主に、エンゲルスやレーニンの解釈批判に向けられ、他方で、弁証法論理説の復元を狙うものだと理解するが、著者の批判は、弁証法論理=歴史説批判であり、もっとも根底的なマルクス批判が丁寧に行われている。長い間、弁証法論理の見本例とされてきた価値形態論が論理的な合理性を持たないならば、弁証法論理というものはなく、単なる概念記述の展開方法に過ぎないのだろうか。また、著者が読み解く立場を論理説、あるいは、歴史と論理の切断説とするならば、その真理性はどのように証明されるのだろうか。やはり、素朴な科学実在論ではない、何らかの科学方法論の立場の表明が必要なのではないだろうか。

 二つ目は、賃労働関係についてである。賃労働関係を資本のもとへの労働の形式的及び実質的包摂という概念で再構築し、新たな現代社会批判の視座を提示できていることを高く賞賛するものである。しかし、ヨーロッパやアメリカでみられた「内部請負制」の取り込みによる、労働の実質包摂の段階の規定には少々違和感がある。日本のアジア地域性、後進性と先進性の両極の特性を組み入れた労働力再生産の外的条件のシステム分析と地理的歴史段階論が必要なのではないだろうか。
 例えば、日本では、家父長制と資本主義が親和性を持った事は歴史的事実であるが、欧米のように、封建時代の家父長制が資本主義制度に引き継がれたと見るよりも、日本では、江戸時代の農家にみられたように母性的な女性主導の家族制度が解体され、家父長制度の確立=資本主義の成立となったとみることができる。また、内部請負制の資本主義への取り込みも、江戸時代の米づくりに起源を持つ鍛冶屋的なものづくりが継承されて、掃除から仕事が始まるという労働過程が特殊に形成されてきたのではないだろうか。(トマス C.スミス「近代日本の農村的起源」や斉藤修「江戸と大阪―近代日本の都市起源」など)。また、言うまでもなく、日本では、欧米のように産業別労働組合ではなく、企業別労働組合が発達してきたことも組み入れなければならない。

 三つ目は、社会歴史段階論としての「管理社会論」が曖昧だと言わざるを得ない。もちろん、著者の関心は飽くまでも理論領域にあり、現状分析は副次的なものに過ぎないことは承知しているが、欲を言うならば、ハート=ネグリの「管理社会論」はアイデアの域を出ず、もう少しの理論的解明を望みたかった。著者は、現代資本主義の労働力の再生産の変容として、消費社会論、規律社会論、管理社会論の三つを挙げている。この三つは、歴史段階論として理論が整理され、歴史的な内実化による肉付けが行われれば極めて有効な現代社会批判の武器となり得るのではないだろうか。

 最後に、著者のマルクス理論の再構築には、宇野理論が深く刻み込まれている印象が強い。ある意味で、マルクスの理論を再構築しようとした宇野理論を批判的に継承して、マルクス自身に沿って再構築する試みでもある。従って、宇野理論の経済学方法論や経済原論の構成についての全体的な言及が望まれる。例えば、宇野原論の流通論、生産論、分配論の構成や段階論としての帝国主義論などである。また、本書は、価値貨幣論と賃労働論の二本立てであり、資本論全体をカバーするものではない。さらに、著者には、自然と人間との物質代謝過程として捉える自然主義=人間主義の社会認識の再発掘や「領有法則の転回」を論理主義的に解釈し、資本主義の運動が必然的に産み出す表象批判の再発見などの優れた業績もある。これらを総合すると宇野理論を再構築する展開が可能である。宇野原論に対応する「経済原論−資本の論理」、宇野帝国主義論に対応する「賃労働の歴史的段階論」、現状分析に対応する「現代の管理社会論」そして、独自の「資本主義の理念としての『自由−平等−所有−強欲』の物象批判」を望みたい。本書はマルクス経済学の21世紀的原点と主発点である。

 評者自身の立場を蛇足としたい。評者はマーケティングの実務家である。マーケティングとは、マルクスが「命がけの飛躍」と呼ぶ、商品の「売り」を実現させることである。つまりは、広義の販路問題の消費者視点からの解決である。資本主義延命の最前線の仕事である。こんな仕事の実務家が、資本主義批判の理論を学ぶのにはふたつの理由がある。

 一つ目は、知的好奇心からである。自らが生きる現代社会や経済を総体としてどう認識すべきか。これを知ることは、少なからず知的欲望を満足させることができる。
 二つ目は、マーケティングという経済の歴史を言わば動かす仕事をしながら、実務家主導型のマーケティングは、極めて学問的歴史が浅く、理論的水準も低いと言わざるを得ない。他方で、スミス=リカードの流れを汲む現代経済学は、一定の補完関係は見いだせるが、実証主義と数学モデル主義の洗礼によって、専門化による分化があまりにも進み過ぎて、統一理論としての性格を失っている。従って、マルクス理論の総合性から批判されたマーケティング批判は、「鏡」に映ったマーケティングとしてその理論的根拠が与えられることになる。例えば、完全競争、寡占、独占の社会厚生の分析をすれば、消費者余剰である厚生は、完全競争>寡占>独占の順である。しかし、これを鏡に映せば、企業余剰は、独占>寡占>完全競争となる。これは、幾つかの公理によって、数学的に演繹によって証明できる。この帰結の意味するところは、「超過利潤を得たいならばシェアアップを目指し独占を目指せ」、となる。真の批判こそが、真の答えに結びつくのである。その証拠に、戦後の日本経済をリードし、先進的経営をしてきた多くの経営者は、近代経済学ではなく、マルクス経済学を学んだ人たちばかりである。彼らは、マルクス経済学を学ぶことによって、幅広い教養に裏打ちされた人間観や歴史観を形成し、短期の利益には惑わされない、長期の原理原則のある経営を行うことができたのである。管見によれば、これは現代でも通用する経験則である。

 現代の売り手から見れば、再構築されたマルクスから何を学べばいいだろうか。マルクスは何を示唆しようとしているのであろうか。

 一つ目は、価値を「血と汗と涙の結晶」とみなすな、ということである。「ものづくり」神話が支配する日本では、価値を「労働の体化」とする幻想が支配しがちである。しかし、価値とは、そのようなものではなく、貨幣によって通約される社会関係である。マルクスは、世界中に張り巡らされた情報ネットワークを通じた網の目から社会的な価値関係を見いだすことが重要であると示唆している。グローバルな消費と生産のネットワークの編み目に、機会と脅威が隠されているということであろう。単純な「ものづくり」で価値が創造できるほど甘くない、とマルクスは助言している。

 二つ目は、資本主義社会では、労働の抽出が利潤の源泉であり続けるということである。そのためには、労働者の「内的動機づけ」が必要になる。そもそもの労働意欲がなければ労働はできない。あるいは、動機付けの必要がない労働の抽出が必要になる。しかし、現代の経営が教えるところでは、資本家である経営者の永続的課題は、労働者の動機づけであり、日本の「人づくりによる動機づけ」がグローバル化の壁をなかなか乗り越えられないなかで、「リーマン・ショック」以後のアメリカの金融業界の「天文学的な」報酬の復活に見られるように、経済的インセンティブによって「強欲(Greed)」を刺激しつづけることでしか道はないのかもしれない。

 三つ目は、労働者の包摂と販路としての消費者の欲望は、新たな歴史段階を迎えようとしているようだ、ということである。戦後、日本に定着した市民社会は、家族、学校、企業、民主政府を通じて、労働者の実質的包摂を可能にし、勤勉な労働者を創出し、他方で、自動車、家電や持ち家などへの欲望を形成してきた。このような市民社会が現代日本で崩壊しつつあることは、ハートの指摘を待つまでもなく明らかである。少子高齢化が進み、家族は自然分解の過程にある。学校や教育への信頼は低下し、雇用を守ってくれる企業はもはや少ない。借金を重ねる政府への信用は地に落ちている。また、バブル後世代などの新しい世代に見られるように、市民社会の根底を支える家族の形成と維持に関わる、車、家電や持ち家などへの欲望は極めて低下している。現代が市民社会の衰退期にあり、「新しい歴史的段階」を迎えようとしていることは明らかである。マルクスが予測したように、「新しい欲求を充足し産み出すような、質的に異なった新しい生産部門がつくりだされなければならない」。

 マルクスの「資本論」、「経済学批判要綱」、宇野弘蔵の「経済原論」、そして、向井公敏著の「貨幣と賃労働の再定義−異端派マルクス経済学の系譜」は、21世紀に読まれるべき大著である。


向井 公敏(むかい きみとし)
1947年生まれ。1975年、大阪市立大学大学院経済学研究科単位取得退学。1950-60年代から「経済学批判要綱」の研究をリードし、資本論のプラン問題研究の第一人者である故佐藤金三郎教授(大阪市立大学)に師事。現在、同志社大学商学部教授。



[2010.05 MNEXT]
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