眼のつけどころ

追悼・保守の仮面を被ったニヒリスト 西部邁
-ビジネスマンだって思想します-

2018.02 代表 松田久一

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西部氏追悼

 西部邁氏(以下、親しみを込めて「さん」と呼ぶ)を「保守」と呼ぶ人が多い。ご本人もそう規定されていたようだが、私には「過激なニヒリスト」と映る。これは、西部さんが非主流派系左翼の「共産主義者同盟(ブント)」に属し、60年安保闘争を主導した全学連中央委員だった頃と何も変わっていないのではないか。

 今回の自死も、「生きながらえることが世界よりも重い」という目的や生きがいのない「生」を拒否した「賢者」の論理を行動に移されたものであり、深く感銘し共感する。これは西部思想からすれば当然の帰結であって、もし仮にこの「自裁死」に異論があるとすれば、西部思想に内在的な問題点があるからである。それを詳らかにできれば、私も西部さんの喪失感を少しでも相対化できるのではないかと思う。

02

「大衆迎合」のマーケティングへの疑問

 私事で恐縮。1980年、大学時代にマルクスを少々囓り、「マーケティング」という「大衆におもねる経営」手法で禄を食む会社に入り、なんとなく「民主主義」の臭いを感じ、日本経済の近代化への貢献の可能性を実践しようとしていた。会社の先輩にも60年安保闘争や「全共闘運動」の闘士が多かった。

 マーケティングという仕事がわかりはじめた80年代後半のバブルの時代、アメリカの文献で最先端の分析手法を読んで、資本主義の「最前線」にいる気分になっていた。また、企業のマーケティング革新を通じて、日本社会の大衆本位社会への転換、つまり「進歩」に貢献できると信じていた。

 「1,000万円のペルシャ絨毯に置く大型テレビがない」、「サラリーマンのつくる車は乗る気になれない」、「スキー場で、オヤジくさいブランドの缶ビールは飲みたくない」などの「消費者ニーズ」を無批判に受容し、製品、ブランドやプロモーションを革新する提案をすることを是としていた。「分衆」「少衆」などの「軽薄な」議論が盛んに行われていた。消費を享受する大衆を是とする吉本隆明と、発展途上国の労働者を搾取して成り立つ日本の豊かさを批判する埴谷雄高の論争が起こったのも、この頃ではないか。

 その消費者ニーズが、突然変わった。1989年の株価ピークと1991年の地価ピークを転機とする「バブル崩壊」である。これで失われた富は、大雑把に1,500兆円とも推計された。経済的には、「第2の敗戦」である。借金苦で失踪、家族の離散、夜逃げが身近に起こり、「浮かれた世」が突然に「清貧の思想」へと変わった。

 さすがに、この大衆の価値観の急転回と転向には、私は驚いた。世間の空気が一挙に変わった。同時に、マス(大衆)への信頼を喪失し、消費者ニーズを是とするマーケティングに根本的な疑問をもった。大衆を信じていいのか、消費者におもねることが企業経営として社会的正義なのか。疑問を感じはじめた。

03

大衆への不信

 大衆的な消費者を信じていいのか。この根本的な疑問に応えてくれたのが、西部さんである。そんなものは信頼するに足らない、というのが結論だった。

 最初に読んだ西部さんの著作は「ソシオ・エコノミクス」(1975年)という70年代のアメリカ主流派経済学批判であり、新たな「経済社会学」を目指す試みだった。ミクロ経済学の数式的推論を極力避けて経済現象の意味を掘り下げた体系をめざしていたが、消費者分析の冒頭には驚いた。消費は、そう簡単には数学的な定式化はできない。それは家族という多様性の中から生まれてくるものだから、とあった。「参った」としか言いようがなかった。ミクロ経済学のイロハとも言える予算制約下の効用最大化の定式化への敬意や信頼のかけらもなかった。

 そして、8年後に出会った著作で、もっとも衝撃が大きかったのは「大衆への反逆」(1983年)である。西部さんは、もはや社会経済学を追求する研究者の枠を大きく越えていた。

 この書で、スペインのJ.オルテガ(1883-1955年)やJ.ホイジンガ(1872-1945年)の功績が近代化批判であることがわかった。彼らによれば、ヨーロッパの近代化とは、人々のこころの支えとなっていたキリスト教を科学という名の価値相対主義に置き換え、あらゆる領域に欲望を本位とする大衆がなだれ込み、技術進歩の名のもとに秩序が破壊されていくものだった。特に、オルテガがこのような危機意識を懐いたのは、W.ディルタイ(1833-1911年)への共鳴がある。世界は、この近代化の波に飲み込まれ、堕落に堕落を重ねていく。これに抗うには、「賢者」が歴史的な「慣習」と「伝統」を重んじ、いかに「平衡感覚」を維持し、統治するかにある。それが保守である。従って、西部さんは、大衆化した知識人と知識人化した大衆、そして民主主義やコスモポリタニズム、それらを拡散するマスメディアや大衆リンチ現象を徹底的に批判した。

04

西部方法論-「慣習」や「歴史」的方法

 大衆的な価値転回に悩んでいた私は、この西部思想に随分と助けられた。消費者ニーズの理解には、批判的な観点を持つと同時に、歴史的事実に眼を向けることをこころがけるようになった。歴史的には残っていない生活史である。

 同時に、この西部さんの発想法は何か、どうしたら身につけられるのかと思った。その答えは、「知性の構造」にある。この著書のなかで西部さんは自分の方法論を開陳している。その特徴は、唯一の論理的に信頼できる方法を、仮説演繹法においていることであり、言語の分析にパース流の記号論を重視していることである。レッテルを貼るようなもの言いをすれば、西部保守思想を構成しているのはふたつだ。ひとつは仮説演繹主義であり、もうひとつは言語記号主義である。

 西部さんの言う慣習や伝統は、例えば商品の価格というのは伝統的な取引や慣行によって成立しているというハイエクと同じ議論と解釈される。しかし、西部さんの論は決して、歴史的事実には向かわない。語源に向かう。しかも、英語を駆使した語源から概念を定義し、そうした概念間の繋がりから、演繹的推論によって結論を導き出す。この方法は、ニーチェの方法論である。「道徳の起源」や「善悪の彼岸」で、活用されている語源から展開する「発生史方法」である。日本では、民俗学の巨匠折口信夫(1887-1953年)が日本の古代研究に活用した方法である。

 西部さんは「慣習」や「伝統」を、言語に集積されたものと見た。従って、慣習や伝統を強調しながら、決して個別的な歴史的事実を見ようとはしなかった。現に西部さんは、「新しい歴史教科書をつくる会」に入りながら、「公民」の教科書を書いている。実際、歴史には興味がなかったのではないか。また、個々の歴史事実をストーリーとして語ること(ヒ・ストーリー)に意味を見いだしていなかった。西部さんが、論争で誰にも負けなかったのは、論理を展開する諸概念を語源的に定義し、その閉鎖体系の中で概念操作し、推論するという方法をとったからである。この方法論は、西部さんが徹底して批判しつづけた応用数学に過ぎない現代経済学の手法だ。西部他の「価格理論Ⅰ」(岩波書店、1971年)でのナイトの「危険とリスク」の確率的考察はその産物だ。

05

60年安保闘争での吉本隆明との交錯

 私は、西部さん以上に、「吉本右派」と呼んで頂いていいほど吉本隆明に大きな影響を受けた。現在も吉本思想を継承しているつもりでいる。両巨人の「折衷」のような存在になったのは、吉本思想を西部さんで中和し、西部思想を吉本さんで解毒したからだ。

 両者に教えられ読んだ論者は数限りない。吉本隆明を「鏡」にして、西部思想を捉えると、わりと西部思想の内在的批判点がみえてくる。私には、吉本さんの影響が強すぎて、亡くなられて約6年になるが、まだ相対化できず、論理化することができないでいる。従って、西部邁追悼文が先になってしまった。

 ふたりは、60年安保闘争で「遭遇」している。1939年生まれの「焼け跡世代」の西部さんは、ブントの全学連中央委員として、そして吉本さんは1924年生まれの「戦中世代」、数少ない全学連支持派の知識人としてだ。当時、実際に交流があったかどうかは知らない。ふたりは、この事件を契機に逮捕されたという共通点を持っている。

 60年安保闘争とは、岸内閣当時に、戦後の日本の独立とともに、締結した日米安保条約の継続承認に反対する運動だった。約30万人(警視庁発表は13万人)が国会を包囲し、警官隊と衝突し、樺美智子さん(東大生)が圧死するなどの悲劇も生み、岸内閣が退陣した。この運動を主導したのは、既成政党ではなく、西部さんが所属するブントの全学連だった。

06

吉本隆明という「鏡」

 西部さんには「大衆イメージの動揺」(「思想史の相貌」、1991年)という吉本論がある。また、「大衆をどう捉えるか」(「難しい話題」、1985年)では対談もしている。そのなかで大きな話題となっているのは、表題どおり「大衆」の捉え方であり、「マルクスの暗さ」(「大衆への反逆」所収)という短文のK.マルクス(1818-1883年)の「生真面さ」についてのやりとりである。

 西部さんは、1985年の吉本さんとの対談の最後で次のように述べている。

「ぼくは、本当に楽しかった。二十五年かかってやっと、吉本さんと会えたという感じがするもんですから」。

 これは、15才年上の吉本さんへの長幼の序による敬意だけでない。この言葉が60年安保闘争の支援へのお礼を意味していることは容易に推察できる。

 しかし、保守といわれる西部さんが、なぜ60年安保闘争に参加したのだろうか。当時、どんな思想を持っていたのか。後の安保闘争を振り返る記述は多くあるが、西部さんらしくない情緒的な人間関係の説明だけで、熱意がよくわからない。

 世の中や大人を信じられない北海道生まれの「焼け跡世代」が、悪童との付き合いから青年期の破壊的な行動に走った程度にしかわからない。

 このマルクス評価の短文や対談を読むと、西部さんは当時、流行っていた「マルクスの疎外論」(H.マルクーゼ、1898-1979年)や「宇野経済学」の影響を受けた「国家独占資本主義論」(姫岡玲治、知人で後のゲーム理論をツールに使う「制度分析」の故青木昌彦 (1938-2015年)の変名)を読んでいた形跡がうかがえる。ブントは、このふたつに、スターリン(1878-1953年)の仇敵であるトロッキー(1879-1940年)の「永続革命論」などで、既成左翼と対抗する理論武装していただろう。そして、西部さん世代を支持する吉本隆明の既成左翼、その同伴者と戦後民主主義を徹底批判した「戦後世代の政治思想」(1960年)を読んでいたはずである。

 西部さんと吉本さんの決定的な対立点は、大衆のとらえ方である。吉本さんは、大衆を日々の暮らしに傾注し、社会的な発言や言説を残さない無名の人々と捉える。知識人とは、生きていく知恵以外に、正義や社会などの余計な事を考える人と定義する。そして、世界の歴史はこの無名で自己表出のない大衆の行動の総和で動くとみなす。この定義は多分にエンゲルスの影響が認められる。

 西部さんは、大衆とは近代がつくりだした、社会の安定に必要な伝統と慣習を破壊するモンスターだとみなす。大衆が発言力を持つ知識人化し、知識人が大衆迎合し、マスメディアが権力者となると批判する。しかし、不思議なことに西部さんの大衆と知識人の定義はない。「マスコミ=大衆的知識人=知識人的大衆=群衆」で一括し批判の対象とする。この定義は、オルテガやG.ルボン(1841-1931年)などの援用ですませているように思える。

 両者は、この大衆の評価で対極をなす。例えば、田中角栄批判では、大衆のねたみやそねみを基盤にしたマスコミ批判を、大衆による集団リンチだ、と批判するのに対し、吉本さんも同意する。西部さんは、大衆化した知識人やマスコミを批判するが、吉本さんは綺麗事しか指摘しない知識人のウソを糾弾し、政治的国家などは不要であり、輪番制でやる程度のものだと批判する。西部さんは、知識人のウソには賛同しながらも、政治は擬制とは言え、大衆に委ねるようなものではなく、慣習や伝統に根拠を置いたものでなければならないと反論する。この対立は、社会の存立基盤を大衆的行動の総和で動く自然史としてみるか、伝統や慣習を体現した賢者にみるかの違いである。

07

吉本隆明批判

 西部さんに、吉本さんを評した「大衆イメージの動揺」がある。この中で、吉本さんを「アナーキスト」、「自己を破壊する人」と規定し、「解体と自立」の矛盾、「大衆像の変成」についての価値判断のなさ、「自己を懐疑する」と批判している。他方で、吉本さんの現状認識に深く共感している。

 このアンビバレントな西部さんの吉本評価は、吉本理論に深入りできなかったことにある。同時に、それは西部理論の欠点でもある。

 「軍国少年」だった吉本さんは戦後、すべての知識を洗いながし、思想の自立的拠点を探すことになる。そして、多くの文学者や知識人、そして既成左翼の本質的な戦争責任は、「大衆の原像」を捉え損ねたことにあり、それを捉える理論がなかったことにあるとし、詩人でありながら、自らその構築を目指す。国家論である「共同幻想論」、言語論である「言語にとって美とは何か」、そして未完に終わった「心的現象論」である。

 特に、言語を「自己表出」と「指示表出」の自己展開として捉えた方法論は、マルクスの価値形態論から学んだ独自のものだった。自己表出とは、手垢のついた言葉では表現できない表出性のことであり、指示表出性とは多くの他者に理解してもらう言葉の道具性ということである。

 西部さんの方法論は、諸概念を閉鎖し、定義し、仮説演繹的に議論をすすめる方法であった。つまり、言語の指示表出性、言葉の語源、慣習や伝統に重点を置く方法論である。従って、「言葉を使いながら言葉を越え新しい意味の地平」を求める吉本さん理論は、自己矛盾や自己破壊としかみえず、まったく理解できなかった、とみるべきだろう。従って、西部さんの吉本評はどこまでも外在的批判にとどまっている。

08

マルクス批判

 西部理論を超克する上で欠かせないのが、吉本さんとの対談でも話題にされている「マルクス」理解である。前掲の「マルクスの暗さ」という短文を読むと、西部さんのマルクス理解がよくわかる。当時、流行った初期マルクスの「経済・哲学草稿」での「疎外論(Entfremden)」を基礎にした実存論的な再解釈や資本論の「資本の生産過程」を読んだ形跡がある。 

 そして、その読んだ印象を「マルクスの暗さ」や「生真面目さ」とマルクスを論じている。本質論ではない印象批評なのだが、ホイジンガを援用して、近代社会の資本主義的な勤労勤勉観の産物としての禁欲主義精神として批判し、マルクスに「遊び」がないことが批判されている。

 私のマルクス理解では、「疎外論」は、ヘーゲルから継承したものであり、表出や表現に近い意味であって、自己の欲望が外部に表出され、その外部が自己を束縛したり、けん制したりするというような特別な意味はない。さらに、本質を取り戻せ、回復せよとも言っていない。西部さんは、マルクスの言っていないことを批判している。

 また、マルクスは、「資本制的な生産様式が支配的に行われる諸社会の富はひとつの『膨大な商品集聚』として現象し、個々の商品はかかる富の原基形態として現象する」から始める資本論を書いた。マルクスは、資本主義社会を批判的に理解するために、この社会の富は、価値を持つ商品として現れ、その商品が様々な形態をとり貨幣に繋がり、その貨幣が生産を包摂することによって資本となる。その資本が拡大再生産するのが資本制社会だ、と冒頭の引用から粘り強く理論展開する。そして、資本や貨幣がこの社会を支配しているようにみえるのは、この社会では、人と人との関係が物と物との関係のようにみえるからだと分析している。

 西部さんのマルクス批判は、この強靱な「弁証法的」な展開を「暗い」と批判し、人間が疎外されている状態を回復し、共同幻想としての国家をとりもどせ、とマルクスは主張していると論じる。そして、資本や国家が幻想であるとしても、それに付き合うしかないのが人間であり、疎外の回復や国家の無政府制などあり得ないと批判する。そして、西部さんは、現代がマルクス的な暗さを持つ社会になったからこそ、伝統や慣習に根ざした「ユーモア」や「滑稽」が生きる知恵として必要だ、と批判する。

 しかし、現代的なマルクス理解では、疎外論は、初期マルクスの遺物であること、つまり、マルクスは自身でこのような類的本質の疎外論を乗り越えていること、そして、強靱な論理展開とマルクスの私生活は相当に乱れたものであったことが知られている。つまり、西部さんは、マルクスを当時の大衆的知識人の言説をもとに組み立てていることになる。

 このような印象が生まれたのは、60年代に西部さんが読んだ資本論が「長谷部文雄」訳であり、名文ではあるが、文語体的な翻訳調であることに関連しているように思われる。また、何よりも、商品論、商品の物象化論、貨幣論と資本への転化の論理展開、そして、原始的蓄積論での歴史的記述が並外れていることによるものだろう。つまり、学生時代に少し読んだ程度ではマルクス理論は理解できるものではない。また、当時の東京大学では、悪文、且つ、難解で知られる宇野弘蔵(1897-1977年)の経済原論(マルクス経済学)が主流であったことにもよるのではないか。

 実際、生活者としてのマルクスは人の悪口が大好きで、たばこを愛し、決闘までして結婚した愛妻イェンニーに黙って隠し子をつくり、友人エンゲルスに認知して貰い、彼によく金の無心をするような人だった。

 従って、「マルクスの暗さ」とは西部さんが自分の「暗さ」を投映したものすぎない。吉本さんは対談でそう言いたかったのではないか。西部さんがイギリスの郊外で学んだイギリス人の生活の知恵であるユーモアはロンドンにいたマルクスも十分に理解していた。

09

大衆と賢者

 私の結論は、西部さんは、ディルタイやオルテガのように、西洋近代に深く絶望したが、「保守の仮面」を被った行動主義的なニヒリストであった、というものだ。

 但し、ご自分では認めていない。伝統や慣習に依拠して、平衡感覚を保ち、世界を善導する賢者(ファシスタ)たらんとしたが、それはできそうもない。そう割り切った生き方をしてきた日本のユーモアのあるニーチェだ。

 西部さんは「尻が軽い」。保守思想家であり、西部さんを「よき好敵手」と呼んだ西尾幹二氏とはまったく違う。保守とは、一旦座った尻を簡単にはあげることを嫌う生理を持った、西尾幹二や福田恆存のような人々のことである。

 西部さんの思想で決定的に欠如し、乗り越えるべき地平は、ふたつある。ひとつは、身体に対する考察である。吉本さんが晩年に到達した三木成夫の解剖学を発達させたような身体論が欠如していた。西部さんは、奥さんの看病や自分の病気や背中の痛さを十分に考察できなかった。従って、頭のなかの論理で生き、論理的帰結として、社会的役割が終焉したとみなせば、自死することを選択するしかなかった。

 もうひとつは、賢者たらんとし賢者の思想を批判する「鏡」を持たなかったことである。「政治の幅はつねに生活の幅よりも狭い」(埴谷雄高)という認識に到達しなかった。賢者である自分の思想を外部批判する回路や鏡を持たなかったことだ。これでは、自分の言説が放言に過ぎず、観念的に思想が閉じていくだけである。吉本さんには、大衆という外部の鏡がある。吉本思想が開かれているのは、閉じた体系ではなく、開かれた体系だからだ。吉本さんの定義するサイレントマジョリティとしての大衆は、現在でも過半数を超える。SNSのアカウントを持つ層はまだ過半数に達していない。

 西部さんには、好敵手や外部への回路が必要だった。西部さんと同じ「焼け跡世代」で氏と対抗できる思想家はいなかった。「もし」の悔恨が残る。西部さんは、保守主義の仮面を被った過激なニヒリストである。この本質は、北海道で育ち、60年安保闘争を戦い、イギリスに留学しても、マスコミ批判のためにマスコミに登場し、禄を食う批評家になっても何も変わっていない。西部さんはあまりにも仮説演繹的に死を考えすぎた。あまりも論理的な死であり、悪童の仕業にみえる。

 吉本さんの言葉を借りるなら、西部さんは「往相」(賢者への道)ばかりで、親鸞のような「還相」(愚鈍な大衆への帰還)はなかった。吉本さんの「自然死」に比べて、西部さんの「自裁死」に、改めて、生きながらえることを無前提に肯定する生活思想に対し、「生きること自体に価値はない」ということを、身を持って教えて頂きました。約40年間、主に書物を通じての対話をして頂き誠にありがとうございました。